第86話:沈む船、次なる一手
深夜。
伊集-院権三のペントハウスは、墓場のように静まり返っていた。
男は、一人、デスクに置かれたモニターを、憎悪に満ちた目で見つめていた。
画面に映し出されているのは、『掃除屋』から送られてきた、路地裏での一件の報告書と、数枚の不鮮明な写真だった。
――ガシャンッ!
権三は、手にしたブランデーグラスを、怒りのままに壁に叩きつけた。
琥珀色の液体と、ガラスの破片が、最高級のペルシャ絨毯の上に、無残に飛び散る。
「……使えん……! あの屑どもめが!」
低い、獣のようなうなり声が、部屋に響いた。
報告書の内容は、惨憺たるものだった。
橘陽菜一人を捕らえることもできず、謎の黒猫一匹に妨害され、挙句の果てには、アリアの介入を許し、全員が返り討ちに遭う。
駒として使った、あの元取り巻きたちは、今頃、警察の厄介になっているだろう。
「……猫、だと? 私の計画が、たかが一匹の畜生に、掻き乱されたというのか……!」
権三は、わなわなと震える拳を、強く握りしめた。
アリアの戦闘能力は、報告で聞いていた以上だ。そして、橘陽菜の周囲には、常に何らかの「不確定要素」が存在する。
もはや、素人のチンピラを駒にした、小手先の嫌がらせでは、あの小娘たちの日常に、傷一つ付けることすらできん。
(……だが)
権三の脳裏に、路地裏で撮影された、もう一枚の写真が浮かび上がる。
それは、力なく倒れた陽菜を、アリアが庇うように抱きかかえている写真だった。
その姿は、まるで、壊れやすい宝物を守るかのようで。
「……ふふ」
権三の口元に、歪んだ、乾いた笑みが浮かんだ。
「そうだ。弱点は、そこだ。橘陽菜……。あいつさえ手に入れれば、アリアは、私の前で跪くしかあるまい」
権三は、再び暗号化された通信端末のスイッチを入れた。相手は、あの『掃除屋』だ。
『――……もしもし』
「私だ。先の件、お前たちの駒は、全く役に立たなかったな」
『……面目次第もございません。ですが、おかげで、ターゲットの貴重なデータは取れました。特に、あの銀髪の嬢ちゃんの戦闘データは、高く売れますよ?』
相変わらず、食えない男だ。
権三は、その挑発を無視し、本題を切り出した。
「……次の手だ。『本物』を用意しろ。金に糸目はつけん」
『ほう……? 『本物』、と申しますと?』
「貴様らのルートで手配できる、最高の『駒』だ。元軍人でも、紛争地域の傭兵崩れでも、何でもいい。必要なのは、結果だ。橘陽菜を、生きたまま、無傷で、私の前に連れてくる。ただ、それだけだ」
スピーカーの向こうで、男が、息を呑む気配がした。
『……伊集院先生。それは、もはや『嫌がらせ』の領域を超えますぞ。ただの『誘拐』だ。足がつけば、あなたも、我々も、終わりだ』
「だから、言ったはずだ。金に、糸目はつけん、と」
権三の声は、もはや何の感情も含まない、絶対零度の響きを持っていた。
しばらくの沈黙。
やがて、男は、くつくつと、喉の奥で笑い始めた。
『……面白い。実に、面白い。沈みかけた船の上で、最後のダンスを踊るおつもりか。よろしいでしょう。あなたほどの太客の、最後の願いだ。最高のダンサーを、ご用意しますよ』
「……いつ、動ける」
『チームの編成に、三日。準備に、二日。……五日後には、お望みの『お荷物』を、あなたのもとへお届けできるでしょうな』
通信が切れる。
権三は、ゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がる、何も知らない街の夜景を見下ろした。
もう、後戻りはできない。
自らの全てを賭けて、あの小娘たちを、絶望の淵へと叩き落とす。
「待っていろ、アリア……。お前の、その美しい顔が、苦痛と絶望に歪む瞬間を、私は、特等席で見物させてもらうとしよう」
沈む船の船長は、自らの手で、船底に最後の穴を開けた。
破滅へと向かう、暴走。
その轟音が、僕たちの日常の、すぐそこまで迫ってきていた。




