第85話:うちの子、守り神!
路地裏での一件の後、僕たちは、駆けつけた警察官に簡単な事情聴取を受け(僕は『偶然通りかかった冒険者』として)、ようやく解放された。
アパートに帰り着く頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
ガチャリ、とドアを開け、リビングに入る。
その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、陽菜は、その場にへたり込んでしまった。
「……怖かった……」
その瞳には、再び涙が浮かんでいる。
僕は、何も言わず、彼女の隣にしゃがみ込み、その背中を優しくさすってやった。
陽菜の腕の中では、リリィがぐったりとしていた。彼女も、慣れない戦闘で、心身ともに疲れ果てているのだろう。
だが、その小さな身体が、今日、陽菜を守ってくれたことは、紛れもない事実だった。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した陽菜は、腕の中のリリリィを、ぎゅーっと、大切そうに抱きしめた。
そして、その顔は、みるみるうちに、満面の笑みへと変わっていった。
「――すごい! すごいよ、リリィ!」
陽菜は、ソファから飛び起きると、リリィを高く掲げた。
「見た!? 蓮! 見たでしょ、あの時のリリィの動き! あの悪い人の顔に、しゅばっ!って飛びついて、がりがりーって! かっこよかったー!」
興奮で、頬を真っ赤に染めながら、ぶんぶんとリリィを揺さぶる。
(や、やめるにゃ、揺らすな……。吐く……)
リリィが、ぐったりとしたまま、内心で悲鳴を上げている。
「もう、リリィはただの猫じゃないよ! 私の、ううん、私たちのお家を守ってくれる、守り神だよ!」
「お、落ち着け、陽菜」
「落ち着いてなんかいられないよ! ああ、リリィ! うちの子になってくれて、本当にありがとう!」
陽菜は、リリィの顔中に、ちゅっちゅとキスをし始めた。
(に゛ゃーーーーっ! は、破廉恥だにゃ、この小娘はーーーっ!!)
リリィの、賢者としての尊厳は、今、完全に崩壊した。
僕は、そんな陽菜の、ある意味、いつも通りの暴走っぷりに、苦笑するしかなかった。
だが、僕の心の中は、陽菜とは別の、静かな感情で満たされていた。
僕は、ソファに座り、陽菜にされるがままになっているリリィを、じっと見つめた。
(……あの動き)
路地裏での、彼女の動きが、脳裏に蘇る。
バッグから飛び出した瞬間の、完璧な跳躍。
男の顔面という、急所を的確に狙った、一切の無駄がない攻撃。
そして、僕が駆けつけるまでの、ほんのわずかな時間を、命がけで稼いだ、その戦闘センス。
あれは、ただの猫にできる芸当ではない。
僕の脳内にある、アリアの戦闘知識データベースが、警鐘を鳴らしていた。
あの動きは、偶然ではない。何千、何万回と繰り返されたであろう、反復訓練の賜物だ。それは、防衛高校の生徒ですら、到達できるかどうかの、極めて高度な戦闘技術の領域。
(……一体、お前は、何者なんだ?)
僕の、静かな問いかけ。
その視線に気づいたのか、リリィが、陽菜の腕の中から、ちらりと僕を見た。
その金色の瞳は、いつものように、全てを見透かすような、深い知性を宿している。
まるで、「ようやく気づいたか、愚か者め」とでも、言いたげに。
僕は、その瞳から、目が離せなくなった。
この猫は、何かを知っている。
僕のこと、アリアのこと、そして、僕たちがこれから直面するであろう、何か大きな運命のことを。
「そうだ! リリィ、今日はお手柄だから、晩御飯は特別だよ! 最高級の、カツオのたたきだからね!」
陽菜の、間の抜けた、しかし心底嬉しそうな声が、部屋に響いた。
「にゃーーーんっ!!」
その言葉を聞いた瞬間、リリィの瞳から、先ほどまでの賢しげな光は完全に消え失せ、代わりに、食欲という本能の炎がきらーん!と輝いた。
彼女は、陽菜の腕から飛び降りると、一目散にキッチンへと駆け出し、陽菜の足元ですりすりと身体を擦り付け、「早くしろ」と催促を始めた。
「…………」
僕は、そのあまりの変わり身の速さに、呆然としていた。
(……気のせいかもしれない…)
僕のシリアスな疑念も、大きな運命の予感も、目の前で繰り広げられる、ただの食いしん坊な猫と、それにメロメロな飼い主の光景の前に、あっさりと霧散していく。
(……いや、でも、やっぱり……)
僕の心の中に蒔かれた小さな疑念の種は、カツオのたたきの香ばしい匂いの中で、それでも静かに、芽吹き始めていた。
僕たちの、奇妙で、騒がしくて、そして温かい日常は、こうして、また一つ、新たな謎を抱えながら、続いていくのだった。




