第84話:黒猫は夜明けに吠える
「ぎゃあああああっ!?」
顔を切り裂かれた男の悲鳴が、薄汚れた路地裏に響き渡った。
突然の出来事に、他の元取り巻きたちも、一瞬、動きを止める。
その視線の先――陽菜のトートバッグから飛び出した一匹の黒猫が、まるで鬼神のような形相で、男の顔面に張り付いていた。
「な、なんだこの猫! どけ!」
男が、パニックになって腕を振り回す。
だが、リリィは離れない。
(陽菜に……陽菜に、触るな!)
賢者としての冷静さも、計算もない。ただ、目の前で、自分の大切な仲間(飼い主)が傷つけられようとしている。その事実だけが、リリィを突き動かしていた。
彼女は、牙を剥き、男の鼻先に、深々と噛み付いた。
「ぐっ、がああああ!」
男が、顔を押さえて蹲る。
その、ほんの一瞬。
リリィが作り出した、その貴重な時間。
「……っ!」
麻酔ガスで朦朧としていた陽菜の意識が、目の前の惨状に、強制的に覚醒させられた。
(リリィが……私のために……!)
身体は、まだ鉛のように重い。だが、心の奥で、小さな炎が、再び燃え上がる。
私が、しっかりしなきゃ。リリィも、自分も、守らなきゃ!
「――なめないでっ!!」
陽菜は、最後の気力を振り絞って、よろめきながら立ち上がった。
そして、その手のひらに、小さな、しかし凝縮された、灼熱の火球を生み出す。
「この……アマが!」
別の男が、鉄パイプを振り上げ、陽菜に襲い掛かる。
「えいっ!」
陽菜が放った火球は、まっすぐに男の顔面へと飛んでいき、その前髪を派手に焦がした。
「あつっ!?」
男が、顔を押さえて怯む。
その隙に、陽菜はリリィを抱きかかえると、路地裏の奥へと駆け出した。
だが、すぐに壁に行き当たり、退路は断たれる。
男たちが、じりじりと、その包囲網を狭めてきた。
「……ここまで、か」
陽菜の膝が、再び、ガクリと崩れ落ちそうになる。
リリィは、彼女の腕の中で、敵を睨みつけ、フーッ!と必死に威嚇を続けていた。
その時だった。
――数ブロック離れたビルの屋上。
僕――アリアは、陽菜の友人たちと別れた後も、念のため、陽菜の帰宅ルートを見守っていた。
その僕の耳のイヤホンに、エレクトラの、普段のふざけた様子とは全く違う、切迫した声が叩きつけられた。
『――女神様! 陽菜様が罠に! 第三商店街、西ブロックの路地裏です! 敵は複数! 陽菜様、麻酔ガスを吸わされています! 急いで!』
「……っ!」
僕は、舌打ちすると同時に、ビルの縁を蹴っていた。
眼下の街並みが、凄まじい速度で後ろへ流れていく。屋根から屋根へと、最短距離を跳躍し、現場へと急ぐ。
(……間に合え!)
――路地裏。
陽菜が絶体絶命と思われた、その瞬間。
ゴォンッ!!!!
路地裏の入り口を塞いでいた、巨大なゴミ収集コンテナが、内側から弾け飛ぶように、宙を舞った。
そして、逆光の中に、一つの人影が、静かに浮かび上がる。
フードを目深に被り、月光のような銀髪をなびかせる、少女の姿。
「……遅くなったな」
僕の声は、絶対零度の響きを持っていた。
僕の、ほんのわずかな油断が、陽菜を危険に晒した。その後悔が、僕の怒りに、静かな火を灯す。
「ア……アリア……!?」
元取り巻きたちの顔が、恐怖に引きつった。
「な、なんで、こいつがここに!」
「ひ、怯むな! やっちまえ!」
数人が、やけくそになって、鉄パイプを振り回しながら、僕に襲い掛かってくる。
僕は、動かなかった。
ただ、迫り来る鉄パイプの先端を、抜き放ったミスリルナイフで、弾いただけ。
――キィンッ!
甲高い金属音と共に、鉄パイプが、ありえない角度にひしゃげ、男たちの腕を痺れさせる。
「なっ!?」
彼らが、信じられないといった顔で、硬直した、その一瞬。
僕は、地面を蹴っていた。
景色が、コマ送りのように、ゆっくりと流れる。
一人目の顎を、蹴り上げる。
二人目の鳩尾に、肘を叩き込む。
三人目の膝の裏を、ナイフの柄で打ち据える。
全ての攻撃は、急所を的確に捉え、しかし、決して致命傷にはならない、完璧な一撃。
数秒後。
僕が、陽菜の前に降り立った時。
背後では、全ての男たちが、白目を剥いて、地面に折り重なるように、倒れていた。
「……大丈夫か、陽菜」
僕が振り返ると、陽菜は、腕の中のリリィを抱きしめたまま、ただ、ぽろぽろと涙を流していた。
「……うん。ごめん、蓮。私……」
「お前は、悪くない」
僕は、彼女の頭を、優しく撫でた。
「よく、頑張ったな」
僕の腕の中で、リリィが、安心したように、「にゃん…」と小さく鳴いた。
遠くから、パトカーのサイレンの音が、聞こえ始めていた。
――同時刻。エレクトラの聖域。
慧は、メインモニターに映し出された、路地裏の光景を見届け、ふぅ、と息をついた。
「……間に合った。よかった……」
安堵も束の間、彼女の指は、再びキーボードの上を舞い始める。
「さて、と。後始末の時間ね」
彼女は、路地裏周辺の全ての監視カメラの映像を確保。陽菜を罠に嵌めた田中くんが、事件直後に伊集院権三の関係者と接触している映像も、きっちりと押さえる。
それらの完璧な証拠データを、匿名で警察組織のサーバーへと、そっと「置いて」くる。
僕たちの、脆い日常。
それを、壊そうとする悪意。
そして、それを、命を懸けて守ろうとする、小さな仲間たちと、見えざる守護者。
僕は、改めて、この日常の、かけがえのなさを、そして、それを守り抜くための、力の必要性を、強く、強く、噛み締めていた。




