第83話:陽菜、狙われる
エレクトラからの警告を受けてから、数日が過ぎた。
僕たちの日常は、表面上は何も変わらない。だが、その水面下では、見えない脅威への警戒が、常に張り詰められていた。
陽菜の登下校は、僕がアリアの姿で、気づかれな-いように遠くから護衛するのが日課になった。陽菜自身も、一人で不用意に出歩くことはなくなった。
だが、敵は、僕たちが思っていた以上に、狡猾だった。
その日の放課後。
陽菜は、友人たちと一緒に、賑やかな商店街を歩いていた。明日のホームルームで使う、パーティーグッズの買い出しだ。
「ねえ、このクラッカー、面白くない?」
「こっちの変なメガネもいいかも!」
友人たちと笑い合いながら、雑貨屋を巡る。その傍らには、ミカたち『銀の百合騎士団』の面々も、まるで護衛のように付き添っていた。
これだけ人がいれば、大丈夫だろう。陽菜も、そして遠くのビルの屋上から彼女を見守っていた僕も、そう思い始めていた。
その時だった。
「――あ、陽菜ちゃん!」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、陽菜のクラスの、少し気弱で大人しい男子生徒だった。
「どうしたの、田中くん?」
「あ、あのさ……。今、先生に頼まれて、資料を運んでるんだけど、一人じゃ大変で……。少しだけ、手伝ってもらえないかな? すぐそこの公民館までなんだけど」
彼は、申し訳なさそうに頭を下げながら、大きな段ボール箱を抱えている。その額には、汗が滲んでいた。
「え、いいよ! みんな、ごめん、私ちょっとだけ抜けるね!」
困っているクラスメイトを、放っておけない。それが、陽菜の人の良さだった。
「陽菜、大丈夫? 私たちも行くよ」
ミカが心配そうに言うが、陽菜は「大丈夫だって! すぐ戻るから!」と笑顔で手を振った。
僕も、屋上からその様子を見ていたが、相手が顔見知りのクラスメイトであること、そして人通りの多い商店街の中でのことだ。さすがに、危険はないだろうと判断してしまった。
それが、僕たちの、致命的な油断だった。
「こっちだよ、陽菜ちゃん。近道があるんだ」
田中くんは、陽菜を連れて、商店街の賑やかな大通りから、一本脇の、薄暗い路地裏へと入っていった。
古びたビルの壁に挟まれた、人通りのない道。昼間だというのに、太陽の光が届かず、ひんやりとした空気が漂っている。
「……ねえ、田中くん。本当に、こっちで合ってる?」
陽菜が、不安そうに尋ねた、その時。
前を歩いていた田中くんが、ぴたり、と足を止めた。
彼は、振り返らない。
ただ、抱えていた段ボール箱を、ことり、と静かに地面に置いただけだった。
そして、一言も発することなく、猛烈な勢いで、路地裏の奥へと走り去っていった。
「え……? ちょ、田中くん!?」
陽菜が、その不可解な行動に戸惑っている、その刹那。
路地裏の奥、ゴミ箱の影や、非常階段の下から、ぞろぞろと、見知った顔が現れた。
伊集院翔の、元取り巻きたちだった。
彼らは、錆びた鉄パイプや、角材を手に、にやにやと下卑た笑みを浮かべて、陽菜の退路を塞いでいく。
田中は、ただの「おびき寄せ役」。役目を終えた彼は、自分の身の安全を確保するため、さっさとその場から逃げ出したのだ。
「よぉ、橘。久しぶりだな」
リーダー格の男が、肩を鳴らしながら、一歩前に出る。
「お前と、あのアリアのせいで、俺たちは散々な目に遭ってんだ。その落とし前、きっちりつけてもらおうか」
罠だ。
気弱なクラスメイトを装い、陽菜を一人にさせ、油断させて、この場所に誘い込む。あまりにも、巧妙で、悪質な罠。
陽菜は、ようやく、自分が嵌められたことを理解した。
「……っ!」
陽菜は、咄嗟にスキルを発動させようと、身構えた。
だが、それよりも早く、彼女を取り囲んでいた男の一人が、懐から取り出した小さなスプレーを、陽菜の足元めがけて噴射した。
甘い、花のようないい匂い。
「……なに、これ……からだに、力が……」
地面から立ち上る気体を吸い込み、陽菜の身体から、急激に力が抜けていく。意識が、急速に混濁していく。怪異には効かないが、人間には効果てきめんの、強力な麻酔ガスだった。
膝から、崩れ落ちる陽菜。
その無防-備な身体に、男たちの、下劣な手が伸びようとした――。
その瞬間。
――にゃあああああああああああああああああああっ!!
空気を切り裂くような、甲高い絶叫。
陽菜が肩にかけていた、トートバッグの中から、黒い弾丸が飛び出した。
リリィだった。
彼女は、陽菜が家を出る時、こっそりとバッグの中に忍び込んでいたのだ。
リリィは、宙を舞い、最も近くにいた男の顔面に、その鋭い爪を深々と突き立てた。
「ぎゃあああああっ!?」
男の悲鳴が、路地裏に響き渡る。
陽菜の日常は、今、確実に、悪意の牙によって、引き裂かれようとしていた。




