第79話:エレクトラのチェス盤
第七区画、雑居ビルの最上階。
その部屋は、人の営みから切り離された、静謐な聖域だった。
窓は黒いシェードで覆われ、外界の光を一切拒絶している。唯一の光源は、壁一面を埋め尽くす、無数のモニターが放つ、青白い光だけ。
相良慧――エレクトラは、コントロールチェアに深く身を沈め、一つのモニターを満足げに見つめていた。
(……今日もここは、尊いわね…)
慧は、うっとりするように、小さく呟いた。
15歳。飛び級で入った大学は、もうひととおり単位は取得してしまっていた。あとは、自分の研究をするだけ。
同世代の昔の友達だった娘たちが話す、流行りのドラマやアイドルの話には、いまいち興味を持てなかった。
かといって、年上の研究者たちは、私の頭脳を利用しようとするか、子供扱いして見下すだけ。
私の居場所と思えるのは、この電子の海しかなかった。
現実よりも、ずっと自由で、ずっと刺激的で、ずっと面白い、この世界に。
今、見ているヘッドセットに映し出されているのは、橘家のリビングの光景だった。
陽菜の座る近くのテーブルの上に、ちょこんと座る、三頭身のちびケイちゃん(ホログラム)の視点映像だ。
数日前、慧は「リリィちゃんの安全のために、緊急連絡用のちびケイちゃん(ホログラム)を設置させてください!」と半ば強引に陽菜を説得し、この小型ホログラムプロジェクターを設置することに成功したのだ。
それ以来、彼女は「システムメンテナンス」や「定時連絡」と称しては、こうして頻繁にホログラムを起動させ、橘家の日常に「参加」していた。
『――あーっ! 蓮、また甲羅投げたでしょ!』
『お前こそ、バナナの皮を置くな!』
『にゃー!(そこだ、やれ!)』
「……くふふ」
ホログラムの、ちびケイちゃんは、その場でぱたぱたと手足を動かしながら、無言で歓声を上げる。
「尊い……。女神様と、そのパートナーと、賢者猫の、尊すぎる日常……。この何気ない会話こそが、至高のコンテンツ……」
目の前で繰り広げられる光景に、慧は至福のため息をついた。
最初は警戒していた蓮やリリィも、害のないマスコットのようなちびケイちゃんの存在に、すっかり慣れてしまっていた。
彼女の目的は、ただ一つ。
この世界で、最も面白い物語――『女神アリア』の物語を、誰よりも近くで、誰よりも深く、観測すること。
その物語が、より面白く、より輝くように、時折、舞台裏からそっと手を貸してやる。
彼女は、神ではなく、ただの、熱心な観客であり、気まぐれな演出家なのだ。
慧は、至福の観測タイムを堪能しながらも、その指先は、休むことなくキーボードの上を舞っていた。
彼女のメインモニターには、第七区画の地図と、そこに点在する、いくつかの赤い警告マーカーが表示されている。
「……さて、と。尊い日常の裏で、つまらない害虫が、うろつき始めたみたいね」
カタカタカタッ、と軽快なタイピング音。
街中の監視カメラの映像が、次々と切り替わっていく。公園のベンチで新聞を読む男、カフェのテラスでスマホをいじる女、アパートの向かいのビルで、望遠レンズを構える二人組。
慧の分析システムは、彼らが『掃除屋』と呼ばれる、プロの情報屋であることを、すでに特定していた。
「……雇い主は、伊集院権三。なるほどねぇ。沈みゆく船の船長は、まだ諦めていなかったわけか」
慧の瞳が、すっと細められる。その光は、もはや悦に入っていたファンのものではない。
自らの聖域(観測対象)を荒らす、不届き者を見据える、冷徹な支配者の光だ。
彼女は、指先で一つのプログラムを起動させた。
『――監視対象プロトコル『ペスト・コントロール』、実行』
街中の、全ての監視カメラ、全ての通信傍受システム、全ての顔認証システムが、赤いマーカーで示された『掃除屋』たちに、自動でフォーカスされる。
彼らが、どこで何を話し、誰と会い、何を食べたか。その全ての行動が、24時間体制で、慧のサーバーに記録されていく。
彼らは、気づいていない。自分たちが、巨大な蜘蛛の巣に絡め取られた、哀れな蝿であることを。
「女神様の日常を、乱す権利は、誰にもない。……私以外にはね」
慧は、そう呟くと、再びホログラムの視点に意識を戻した。
画面の中では、陽菜と蓮が、スーパーでの買い物リストについて、微笑ましい口論を繰り広げている。
『今夜は、私がカレー作るんだから、お肉は鶏肉!』
『いや、カレーなら豚肉だろ。カツカレーにできるし』
『むー! じゃあ、両方買う!』
『……ったく。わがままだな』
蓮が、呆れたように言いながらも、その口元は優しく微笑んでいる。
その何気ないやり取りの中で、二人の視線が、ふと、絡み合った。
しーん、と、時間が止まる。
お互いの瞳の中に、自分の姿が映っているのを、見つめ合っては……やがて、どちらからともなく、ぷいっ、と顔を背ける。陽菜の頬も、蓮の耳も、ほんのりと赤く染まっていた。
気まずい沈黙を誤魔化すかのように、陽菜は近くに居たちびケイちゃんに、蓮は足元にすり寄ってきたリリィに、それぞれ視線を移した。
『……リリィ、お前は鶏肉派か? 豚肉派か?』
『ちびケイちゃん!き、きょうの天気、いいかな?』
(ああ! 私と猫で、照れ隠しするんじゃないわよっ!)
慧は、コントロールチェアの上で、声にならない叫びを上げた。
(尊い……! 尊すぎる……! 年上のお二人の、この甘酸っぱい空気感……! ……こ、この刺激は……ぷっはぁ……! ご、ごちそうさまです……!)
画面の向こうで、蓮と陽菜が、またぎこちなく会話を再開している。
慧は、ちびケイちゃんが、二人の気まずさを和らげる、都合のいい「三人目」として完全に認識されていることに気づいていた。
(……この二人、ちびケイちゃんを一個のプログラムの、無機物ような感覚で捉えてしまって油断してるわね。…ふふふ、いい傾向よ……♪)
電子の魔女は、自らが作り上げたチェス盤の上で、静かに駒を動かし始める。
光と闇、日常と非日常。
その全ての境界線は、彼女の指先一つで、いとも簡単に、引き直されていくのだ。




