第76話:新しい家族(?)、リリィ
学園を揺るがした嵐が過ぎ去り、数週間が経った。
季節は少しずつ移ろい、窓から差し込む朝の日差しが、日に日に柔らかさを増していく。
僕たちの日常には、すっかり新しいリズムが生まれていた。
「ん……」
僕が、まぶたに感じる温かさで目を覚ますと、視界のすぐそばに、金色の大きな瞳があった。
黒猫――リリィが、僕の枕元に座り込み、じっと僕の寝顔を覗き込んでいたのだ。
「……おはよう、リリィ」
僕がかすれた声で言うと、彼女は「にゃん」と短く鳴き、僕の鼻先に、自分の冷たい鼻をこつん、と当ててきた。それが、彼女なりの朝の挨拶らしい。
リリィは、あの日以来、すっかり橘家の一員として、その日常に溶け込んでいた。
いや、溶け込んだというよりは、この家の新たな支配者として君臨している、と言った方が正しいかもしれない。
リビングへ行くと、陽菜が「リリィちゃん、おはよう!」と、甲高い声で出迎えた。彼女の足元には、昨日買ってきたばかりの、羽飾りがついた最新式の猫じゃらしが転がっている。部屋の隅には、陽菜が趣味で建てたであろう、三階建ての豪華なキャットタワーが鎮座していた。
「蓮、おはよう! 朝ごはんできてるよ!」
「ああ」
僕が席に着くと、リリィも、まるでそれが当然であるかのように、僕の隣の椅子にぴょんと飛び乗った。
「はい、リリィちゃんは、今日はお魚のパテだからねー」
陽菜が、高級そうな缶詰を開けて、リリィ専用の皿に盛り付ける。
リリィは、それをすまし顔で一口食べると、満足げに喉を鳴らした。そして、おもむろに椅子から飛び降りると、僕の足元へとやってきた。
そして、すりすり、と、その柔らかな身体を、僕の足に擦り付けてくる。
「……なんだよ」
僕がぶっきらぼうに言うと、リリィは「ごろごろ」と喉を鳴らしながら、僕の顔を見上げてきた。その瞳は、「撫でろ」と雄弁に語っている。
(……仕方ないな)
僕は、ため息をつきながら、その小さな頭を撫でてやった。シルクのような、滑らかな手触り。賢者としての威厳はどこへやら、彼女は気持ちよさそうに目を細めている。
この気まぐれで、賢しげな同居人に、僕も、いつの間にかすっかり絆されてしまっているようだった。
その日の午後。
陽菜が学校の用事で出かけて、リビングには僕とリリ-ィの二人だけになった。
僕は、ソファに寝転がり、買ってきたばかりの本を読んでいた。すると、リリィが、とてとて、と僕の胸の上に登ってきて、香箱座りをした。
「……重い」
「にゃーん」
抗議の声は、完全に無視された。
僕は、諦めて本を脇に置くと、仰向けのまま、胸の上のリリィの身体をひっくり返した。
「にゃっ!?」
突然のことに、リリィが驚きの声を上げる。
僕は、その無防備に晒された、真っ白でふわふわのお腹に、顔をうずめた。
(な、なにするにゃー!)
すんすん……。んー、やっぱり、猫の匂い、落ち着くな……。
お日様と、ミルクと、少しだけ香ばしい干草のような匂い。アリアの身体になってから研ぎ澄まされた嗅覚が、その匂いを心地よい情報として、僕の脳に送ってくる。
「ぐるるるっ! シャーッ!」
リリィは、実際の鳴き声で威嚇しながら、手足をばたつかせて必死に抵抗する。しかし、その内心は、悲鳴に近かった。
(うにゃーー! は、破廉恥だにゃー! はなすにゃー!)
僕は構わず、その柔らかな身体をわしゃわしゃと撫で回す。やがて、彼女の抵抗は諦めの境地に至り、「ごろごろごろ……」と、不本意ながらも心地よさを示す振動に変わっていった。
(くっ……! 賢者である私が、こんな……! で、でも……そこ、もっと。もっと、だにゃ……ごろごろ……はっ!)
この、猫が一匹増えただけの、穏やかで、満ち足りた時間。
僕が、この日常に、すっかりと心を許し始めていた、その時。
僕は、まだ気づいていなかった。
アパートの向かいのビルの屋上から、高性能な望遠レンズが、僕たちの部屋の窓へと、静かに向けられていることに。
そして、僕たちの平和な日常が、伊集院権三という、沈みゆく船の船長の、歪んだ復讐心のターゲットとして、再びロックオンされているということを。
静かな嵐は、もう、すぐそこまで迫っていた。




