第75話:雨上がりの空に
黒木が、醜い怪人の姿のまま、自衛隊員たちによって連行されていく。
その騒がしさが遠ざかっていくと、コントロールルームには、再び静寂が戻ってきた。
霧島校長は、僕に「後始末は、こちらでしておくわ」とだけ告げると、部下たちを従え、颯爽と部屋を後にしてしまった。
一人残された僕は、壁にもたれかかり、大きく息を吐いた。
張り詰めていた緊張の糸が、ぷつり、と切れた。
(……終わった)
身体強化スキルの反動が、どっと全身を襲う。視界が霞み、足元がおぼつかなくなる。
アリーナで暴れていたヒュドラも、駆けつけたギルドの増援部隊によって、すでに鎮圧されたようだ。仲間たちの、安堵したような声が、階下から聞こえてくる。
その時、コントロールルームの壊れた扉から、陽菜が息を切らせて飛び込んできた。
「蓮!」
彼女の顔は、煤と汗で汚れていたが、その瞳は、僕の無事を確かめ、心の底から安堵したように、潤んでいた。
「……陽菜」
僕が、彼女の名前を呼んだ瞬間。
僕の身体を支えていた、最後の力が、完全に抜け落ちた。
ぐらり、と傾ぐ僕の身体を、陽菜が、その小さな身体で、必死に受け止めてくれる。
「もう、大丈夫だよ、蓮。よく、頑張ったね」
陽菜は、僕の頭を、自分の胸に優しく抱き寄せた。
彼女の温もりと、ドキドキと速い鼓動が、僕に直接伝わってくる。
ああ、陽菜の匂いだ。陽だまりみたいな、安心する匂い。
僕は、その心地よさに、全ての抵抗をやめ、完全に身体の力を抜いた。
陽菜は、そんな僕を抱きしめながら、その頬を、僕の銀髪にすり、と寄せた。
「……怖かった。蓮に、何かあったらって……。もう、あんな無茶、しないでね」
その声は、甘く、そして震えていた。
「……ん」
僕は、もはや、頷くことしかできない。
その時、僕たちは気づいていなかった。
コントロールルームの入り口に、僕たちを心配して駆けつけてきた、クリスティーナや、『銀の百合騎士団』の面々が、息を呑んで立ち尽くしていたことに。
壊れた窓の外からは、様子をうかがっていた他の生徒たちが、顔を赤らめてこちらを覗き込んでいることに。
そして、天井の通気口からは、いつの間にか潜り込んでいたリリィが、呆れたような、それでいて興味深そうな目で、僕たちを見下ろしていることに。
室内には、甘酸っぱい、そして少しだけ気まずい空気が流れる。
誰もが、その光景から、目が離せないでいた。
死闘の末に結ばれる、二人の少女。
あまりにも、尊く、そして美しい光景。
誰もが、そう思った、その時。
(……ん? まて、なんか、すごい視線を感じる……)
陽菜の胸に顔をうずめていた僕が、ようやく周囲の異常な気配に気づいた。
僕は、かろうじて動く首だけで、ゆっくりと顔を上げる。
そして、見た。
部屋の入り口で、固まっているクリスティーナたち。
窓の外の、無数のギャラリー。
天井の、猫。
僕の顔が、サッと青ざめる。
(み、見られてる!? この状況を、全部!?)
僕は、陽菜に伝えようと、必死に口を動かした。
「ひ、ひな……! ま、まわり……!」
だが、僕から発せられたのは、「あー……うー……」という、意味のない呻き声だけだった。
「どうしたの、蓮? 苦しいの?」
僕の異変を、あらぬ方向に勘違いした陽菜は、さらに優しく、そして強く、僕を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ。私が、ずっとそばにいてあげるからね」
――ああ、もう、だめだ。
僕の意識は、羞恥心と、陽菜の温もりの板挟みになり、完全にシャットダウンした。
事件は解決し、黒木の野望は潰えた。
アリアの活躍と、彼女を守ろうとした仲間たちの行動は、この日、学園の新たな伝説となった。
そして、伝説の最後を飾った、あのコントロールルームでの光景は、『銀の百合の誓い』として、生徒たちの間で、末永く語り継がれることになる。
後日、校長室で霧島校長から正式に礼を言われた僕は、自宅で開かれた陽菜たちによる「アリアさんお疲れ様会」で、再び質問攻めとスキンシップの嵐に見舞われることになるのだが……それは、また別の話。
一つの嵐は去った。
だが、僕たちの日常には、また新たな、甘くて、少しだけ騒がしい風が、吹き始めようとしていた。




