第8話:黒フードの正体と、二人の決意
翌朝。
陽菜が最初に感じたのは、腕の中の温かさと、自分の鼻先をくすぐる甘い花のようないい匂いだった。
(……ん、いい匂い……蓮の匂い……)
ぼんやりとした意識のまま、抱きしめている温かいものを、さらに強くぎゅっとする。
そして、数秒後。
(……ん? 蓮の匂い? 抱きしめてる?)
完全に覚醒した陽菜は、自分が蓮に抱きついたまま眠っていたという事実に気づき、カッと顔に血が上った。
「~~~っ!!」
声にならない悲鳴を上げ、慌ててベッドから転がり落ちる。ドタン!と大きな音が響き、その衝撃で僕も目を覚ました。
「ん……? 陽菜……?」
「な、ななな、何でもない! おはよう! そ、そろそろ朝ごはんの準備しないと!」
床に尻もちをついたまま、陽菜は意味不明なことを叫びながら、アワアワとキッチンへと逃げていった。
そんなドタバタな朝の後、二人は食卓に向かい合っていた。
陽菜が作ってくれたのは、シンプルなトーストと目玉焼き。でも、陽菜はどこか上の空で、自分のトーストに塩をかけようとして、僕に「それ砂糖」と突っ込まれていた。
「……なあ、陽菜」
「ん、んん?」
「昨日……スタンピードの後、学校に戻らなかったんだろ? 大丈夫なのか?」
僕の問いに、陽菜の動きがピタリと止まった。
「……うん。生存報告だけは連絡したけど、すぐ帰っちゃったから。たぶん、先生やみんなに色々聞かれると思う」
彼女はフォークで目玉焼きを突きながら、つぶやいた。
「なんて言おうかな……」
(よし、決めた)
陽菜は心の中で一つ、覚悟を決めた。
(『蓮が行方不明になったショックで、とても教室に戻れる気分じゃなかった』……これで行こう。悲しい顔をしてれば、誰もそれ以上は突っ込んでこないはず。ごめんね、蓮。君の名前、使わせてもらうよ)
「大丈夫!」
陽菜は顔を上げ、ニッと笑ってみせた。その笑顔は、まだ少し引きつっていたけれど。
「心配しないで。私、ああ見えて結構、演技派だからさ。うまくやっとくよ」
「……そうか」
「うん。それより蓮こそ、絶対、家から出ちゃダメだからね! わかった?」
「……わかってるよ」
「よし!」
陽菜は食べ終えたお皿を片付けると、急いで学校の準備を始めた。制服に着替え、ポニーテールを揺らしながら、鏡の前でネクタイを締める。
その背中を見ながら、僕は思う。
陽菜は、僕のために嘘をつきにいく。僕を守るために、一人で戦いに行ってくれているんだ。
なのに、僕はここで、ただ隠れていることしかできない。
「じゃあ、行ってきます」
「……ああ。気をつけて」
パタン、とドアが閉まる。
一人きりになった部屋に、静寂が戻ってきた。
僕は陽菜がいなくなったドアをじっと見つめながら、拳を握りしめる。
「……強く、ならなきゃ」
この身体と、この力。
陽菜が僕を守ってくれるように、僕も、陽菜を守れるだけの力を手に入れなければならない。
その決意を胸に、僕の新たな一日が始まった。
【陽菜 視点】
玄関のドアを閉めた瞬間、私は大きく深呼吸をした。
(よし、行くぞ、橘陽菜! 完璧な『悲劇の幼馴染』を演じ切るんだ!)
自分に気合を入れ、私は学校へと向かった。
教室のドアを開けると、案の定、クラス中の視線が一斉に私に突き刺さる。友人たちの心配そうな声に、「うん、まあ、なんとか……」と練習通りに俯き加減で答える。
本当の試練は、ホームルームが終わった直後だった。担任の先生に呼び出され、応接室へと連れていかれた。そこには、鋭い目つきをした自衛隊員の男性が座っていた。
「橘陽菜さんだね。すまない、忙しいところを」
彼は、スタンピード当日の状況について、いくつか質問をしてきた。
「君が意識を失う直前、何か変わったことはなかったかね?」
「……すみません、パニックで、あまり……」
私がか細い声で答えると、彼は「そうか」と頷いた。
「では、別の話だ。昨日の昼過ぎ、第七区画で起きたガーゴイルの襲撃についてだが」
彼は一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこに写っていたのは、不鮮明ながらも、黒いフードを被った小柄な人物が、ガーゴイルを圧倒している姿だった。あの時の、蓮の姿だ。
「この『黒フード』に、何か心当たりはないかね?」
彼の口調は、犯人を捜すようなものではなかった。むしろ、期待が込められているように聞こえる。
「いえ、全く……」
心臓が、早鐘のように鳴っている。顔に出るな。落ち着け、私。
「そうか。この人物は、多数のガーゴイルを単独で殲滅し、多くの市民と我々の隊員の命を救ってくれた。まさにヒーローだ。我々としては、ぜひとも接触し、協力を仰ぎたいと考えている」
彼は、真剣な目で私を見つめた。
「君もこの人物に助けられたと聞いている。もし何か知っているなら、教えてはもらえないだろうか。これは、君や、多くの市民を守るためなんだ」
「……私を、助けてくれた人がいるとは聞きました。でも、フードを深く被っていて、誰なのかは……本当に、わからないんです」
嘘をつく罪悪感で、胸が張り裂けそうだった。
「……そうか。無理を言ってすまなかった」
隊員はがっかりしたように写真をしまい、立ち上がった。
「もし、何か思い出したり、この人物と接触することがあったら、ギルドか自衛隊に知らせてほしい。我々は、彼(彼女)を歓迎する」
それだけ言い残し、彼は部屋を出ていった。
一人残された応接室で、私は大きく息を吐き出した。
(歓迎……する……)
自衛隊は、蓮を敵だとは思っていない。それは、少しだけ安心できる材料だった。
でも、だからこそ、蓮の力が公になることの危険性も感じた。あの規格外の力は、協力者として迎えられると同時に、研究対象として見られる可能性だってある。
(蓮は、どう考えているんだろう……)
私が守らなきゃ、と思っていた。でも、もしかしたら、それは蓮の望むことじゃないのかもしれない。
家に帰ったら、ちゃんと話をしよう。二人で、これからどうするかを。
【蓮 視点】
陽菜が学校から帰ってきた。その顔は、どこか疲れているように見えた。
「おかえり、陽菜。大変だったろ」
「ただいま、蓮。……うん、まあね」
陽菜はそう言って、無理に笑顔を作った。何かあったのは明らかだったが、彼女が話したくないのなら、今は待とう。
僕がそう思っていると、陽菜の方から切り出してきた。彼女は、学校での自衛隊員とのやり取りを、包み隠さず話してくれた。彼らが「黒フード」を歓迎していること、協力を求めていること。
「……そうか。自衛隊が、僕を」
図らずも、僕が一日中考えていたことが、間違っていなかったと確信に変わった。
僕は、陽菜が淹れてくれたお茶を一口飲み、彼女が帰ってくるまでにまとめていた考えを話すことにした。
「陽菜。僕、冒険者ギルドに登録しようと思う」
「え……?」
陽菜は、驚いたように目を見開いた。
「どうして、急に?」
「ずっと考えてたんだ。このまま、陽菜に匿ってもらって隠れて生きていくのは、やっぱり違うと思う。陽菜にだって、ずっと嘘をつかせ続けることになる」
僕は、冷静に計画を話した。
「今の僕は、戸籍すらないただの『怪しい奴』だ。でも、ギルドカードがあれば、最低限の身分証明になる。それに、闇雲に『黒フード』として活動するより、ギルドの依頼を受ければ正々堂々と戦える。情報も集めやすい。アリアのことや、転送トラップのことも、何か分かるかもしれない」
そして、僕は一番の目的を告げた。
「力をつけて、ランクを上げる。ただの『黒フード』じゃなくて、高ランクの冒険者として認められれば、いざという時に僕や陽菜の身を守る盾になる。戦闘能力だけじゃない、社会的な立場っていう『力』も必要なんだ」
僕の話を聞き終えた陽菜は、しばらく黙り込んでいた。そして、ぽつりと言った。
「……蓮は、強いね」
「え?」
「私、怖かったんだ。蓮のことが誰かに知られちゃうのが。だから、ずっと隠れててほしいって、心のどこかで思ってた。でも、蓮はちゃんと前を向いて、どうすべきか考えてる」
陽菜は、吹っ切れたような顔で、僕の手をぎゅっと握った。
「わかった。蓮がそう決めたなら、私は応援する。ごめんね、蓮の気持ちも考えないで」
「いや、陽菜が心配してくれるのは、当たり前だろ」
「うん……。でも、約束して。絶対、絶対に無茶はしないこと。危ないと思ったら、すぐに逃げること! わかった?」
「ああ、約束する」
陽菜の理解を得て、僕たちの向かうべき道筋が、ようやく定まった。
それは、闇に紛れる道じゃない。光の中に紛れ、自らの力で居場所を勝ち取るための道だ。
翌日、僕は陽菜に見送られ、冒険者ギルドへと向かうことになる。
名実共に力をつけ、少々のことでは揺らがない立場を手に入れる。
僕と陽菜の、二人で歩むための作戦が、今、始まろうとしていた。




