第74話:黒きハイエナの最期
コントロールルームの分厚い防護扉を、僕はミスリルナイフで蝶番を切り裂き、蹴破った。
けたたましい金属音と共に、室内へと転がり込む。
そこは、無数のモニターが壁を埋め尽くす、施設の神経中枢だった。そして、その中央。巨大なコンソールパネルの前に、その男は立っていた。
「……来たかね。アリア」
黒木教授は、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔には、もはや温厚な教授の面影はない。計画が最終段階に入ったことへの愉悦と、僕への剥き出しの憎悪が、醜く混じり合っていた。
「見事な登場だ。だが、もう遅い。ヒュドラの細胞活性レベルは、もう臨界点を超える。お前も、下にいるネズミどもも、もはや助からんよ」
彼は、コンソールの上にある赤いレバーに、そっと指をかけた。
「……そうかな?」
僕は、静かに立ち上がり、彼に向かって一枚のUSBメモリを放り投げた。
それは、ケイから渡されたものだ。
「なんだ、これは」
黒木が訝しげにそれを拾い上げ、近くの端末に差し込む。
画面に表示されたのは、彼の金の流れ、論文盗用疑惑、そして――伊集院権三との密約を示す、完璧な証拠の数々だった。
「なっ……! ば、馬鹿な! なぜ、このデータが……!」
黒木の顔色が変わる。
僕は、さらに畳みかけるように、陽菜の友人たちが使っていたスマホを、もう一つ投げ渡した。
そこには、リリィが撮影した、『【極秘】特殊個体(怪異)購入に関する覚書』が、くっきりと表示されていた。
「……終わりだ、黒木」
僕は、静かに、そして冷たく宣告した。
「お前の悪事は、全て、白日の下に晒された」
「だ、黙れ! 黙れ黙れ黙れぇっ!!」
計画が、完全に破綻したことを悟った黒木は、獣のような叫び声を上げた。
「小娘が……! 全て、お前のせいだ! お前さえいなければ、私の計画は……!」
逆上した彼は、懐から一本の注射器を取り出した。禍々しい紫色の液体が、怪しく揺らめいている。
『キマイラ・レイジ』。対象を強制的に凶暴化させる、禁断の劇薬。
「お前を、この手で、八つ裂きにしてくれる……!」
彼は、ためらうことなく、その注射器を、自らの首筋に深々と突き立てた。
「ぐ……ぐあああああああああああっ!!」
黒木の身体が、人間のものではない音を立てて、軋み、膨張していく。
筋肉が異常に隆起し、皮膚が硬質化し、その背からは、昆虫のような歪な翼が生え始めた。
数秒後。そこに立っていたのは、もはや教授ではない。理性を失い、ただ破壊衝動のままに動く、醜悪な「怪人」だった。
「ア……リ……ア……!」
怪人・黒木は、僕の名前をうわごとのように呟くと、床を蹴って襲い掛かってきた。そのスピードは、ヒュドラの比ではない。
僕は、咄嗟に身体強化を発動させ、その鋭い爪をナイフで受け流す。
キィィィィンッ!
凄まじい衝撃に、腕が痺れる。
(……強い!)
だが、動きが単調だ。理性を失ったことで、戦術も何もあったものではない。
僕は、彼の猛攻を冷静にかわしながら、反撃の機会をうかがう。
「死ねえええええっ!」
黒木が、渾身の力で拳を振り下ろしてきた。
僕は、それを横に跳んで回避する。彼の拳は、僕がいた場所の床を叩き割り、巨大なクレーターを作った。
がら空きになった、胴体。
その隙を、僕は見逃さなかった。
僕は、彼の腕を駆け上がり、その胸の中心へと、ミスリルナイフを突き立てようとした。
だが、その瞬間、黒木の背中から生えた翼が、僕の身体を強かに打ち据えた。
「ぐっ……!?」
壁に叩きつけられ、肺から空気が押し出される。視界が、一瞬だけ白く染まった。
(……これで、終わりだ……!)
怪人・黒木が、勝利を確信し、とどめを刺そうと僕に迫る。
その時だった。
――ガシャンッ!!
コントロールルームの強化ガラスが、外側から粉々に砕け散った。
そして、ロープを使ってラペリング降下してきたのは、完全武装の自衛隊員たちと――その先頭に立つ、氷のような表情の、霧島校長だった。
「……見苦しいわね、黒木教授」
彼女の、静かな声が響き渡る。
「なっ……き、霧島……!」
黒木の動きが、一瞬だけ止まった。
その隙を、僕は逃さない。
僕は、最後の力を振り絞って立ち上がると、黒木の背後に回り込み、彼の首筋――強化薬を注射した、唯一の弱点へと、ナイフの柄を、力任せに叩き込んだ。
「ぐぎゃっ!?」
神経節を破壊され、怪人・黒木は、白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。
静寂が、コントロールルームを支配する。
僕の荒い呼吸音だけが、やけに大きく響いていた。
「……見事な手際ね、アリア特待生」
霧島校長が、僕のそばに歩み寄り、静かに言った。
「後は、我々に任せなさい」
自衛隊員たちが、崩れ落ちた黒木に、対怪異用の特殊な枷を手際良く取り付けていく。
こうして、黒きハイエナの、歪んだ野望は、完全に潰えた。
僕は、眼下で続く、仲間たちの戦いを見下ろしながら、この長い一日が、ようやく終わることを、静かに感じていた。




