第73話:それぞれの戦い
訓練施設が、混沌の渦に飲み込まれていた。
アリーナの中央では、僕がヒュドラの巨体と対峙し、一進一退の攻防を繰り広げている。九つの頭から放たれる酸のブレスや、鞭のようにしなる尾の攻撃を、僕は紙一重でかわし続けていた。
だが、僕の意識は、目の前の敵だけに向けられているわけではなかった。
観覧席で、そしてアリーナの隅で、僕の仲間たちもまた、彼女たち自身の戦いを繰り広げていたのだ。
――観覧席、避難ゲート前。
「きゃあああ!」
「押さないで!」
パニックになった生徒たちが、狭い避難ゲートに殺到し、将棋倒しになりかけている。その群衆の先頭で、仁王立ちになっていたのは、クリスティーナだった。
「落ち着きなさい!」
凛とした、しかし腹の底から響くような声が、混乱の極みにあった生徒たちの耳を打つ。
「あなた方は、それでも未来の防衛戦力を担う者ですの!? この程度の混乱で我を失うなど、恥を知りなさい!」
彼女の、女王然とした威厳。それは、恐怖に支配された生徒たちの心を、不思議と鎮める力を持っていた。
「ミカさん! あなたは、負傷者のリストアップを! アヤさん、ユキさん! あなたたちは、ゲートの向こうで、誘導の列を整理なさい!」
クリスティーナは、レイピアの切っ先で、的確に指示を飛ばしていく。
「「「はいっ!」」」
『銀の百合騎士団』の面々が、その指示に寸分の狂いもなく応える。彼女たちは、もはやただの女子高生ではない。一人の指揮官の元で、完璧に機能する、一つの部隊だった。
彼女たちの献身的な働きで、あれほど混沌としていた避難の流れは、驚くほどスムーズに整然としたものへと変わっていった。
――アリーナ、観覧席直下。
「陽菜ちゃん、危ない!」
ヒュドラの暴走の余波で、アリーナの壁の一部が崩落し、逃げ遅れた生徒たちの上に、巨大な瓦礫が降り注ぐ。
その生徒たちと、瓦礫の間に、陽菜が滑り込んだ。
「――させないっ!」
彼女の両手から、炎ではない、温かい光の奔流が溢れ出す。
「『陽光の盾』!!」
陽菜を中心に、半球状の光のドームが出現し、降り注ぐ瓦礫を、まるで柔らかなクッションのように、ふわりと受け止めた。
「すごい……」
助けられた生徒たちが、呆然と、その光景を見上げる。
陽菜の額には、玉のような汗が浮かんでいる。明らかに、消耗が激しい。
「……大丈夫だよ。早く、逃げて!」
彼女は、歯を食いしばりながら、笑顔を作った。その姿は、まさしく、人々を守る『盾』そのものだった。
陽菜は、攻撃の力ではない。だが、誰かを守るという一点において、この場の誰よりも、強い輝きを放っていた。
――そして、アリーナ中央。
仲間たちの奮闘を、僕は肌で感じていた。
陽菜が、クリスティーナが、友人たちが、それぞれの場所で、命を懸けて戦っている。
僕が、目の前の敵に集中できる環境を、彼女たちが作ってくれているのだ。
(……感謝する)
僕は、心の中で呟き、改めてヒュドラに向き直った。
だが、その時、僕の耳のイヤホンから、エレクトラの切羽詰まった声が届いた。
『――女神様! まずいです! 黒木が、コントロールルームから、ヒュドラの細胞活性レベルを、強制的に引き上げています! このままでは、奴はさらに凶暴化し、陽菜様たちの防衛網を突破します!』
サングラスのレンズに表示されたウィンドウには、ヒュドラの体内のエネルギー量が、危険なレベルまで急上昇していくグラフが表示されていた。
(……くそっ! やはり、大元を叩くしかないか!)
ヒュドラをここに釘付けにしつつ、黒木のいるコントロールルームを、どうやって――。
――にゃああああーーーんっ!!
その時、天井の梁から、鋭く、そして明確な意志を持った、猫の鳴声が響き渡った。
見上げると、リリィが、僕と、そしてアリーナ最上階にあるコントロールルームを、交互に前足で指し示していた。そして、自分の胸をぽんぽんと叩き、「任せろ」とでも言うように、力強く頷いてみせる。
言葉は通じない。だが、その金色の瞳は、雄弁に語っていた。
(――アリア! こいつは私たちが引き受ける! お前は、親玉を叩け!)
僕が、そのただならぬ様子のリリィに気を取られていると、僕の背後から、弓を構えた人影がそっと近づいてきた。陽菜の友人、アヤだ。彼女はアーチェリー部のエースで、避難誘導の傍ら、後方からの援護の機会をうかがっていたのだ。
「アリアさん……あの猫、一体……?」
アヤも、梁の上のリリィの異常な行動に気づき、戸惑いの声を上げる。
そのアヤの存在に気づいたリリィは、今度はアヤに向かって「にゃっ!」と短く鳴いた。そして、自分の足元に置いていた、対怪異用の閃光弾を前足で押し出すと、今度はアヤの持つ矢の先端と、ヒュドラの複数の眼球を、交互に指し示した。
「え……?」
アヤは、息を呑んだ。
(この子、私に、あの閃光弾を矢につがえて、怪物の目を狙えって……言ってるの?)
常識では考えられない提案。だが、アーチェリー部のエースである彼女の頭脳は、その戦術の有効性を、瞬時に分析していた。
(……確かに。あの多頭の視覚を一度に潰せれば、大きな隙が生まれる。でも、猫がそんな作戦を……?ああ、いや、でも、それが出来れば……!)
アヤの瞳に、迷いはもうなかった。
「……わかったわ」
彼女は、梁の上のリリィに向かって力強く頷くと、近くにあったワイヤーを駆け上がり、リリィの元へと合流した。
「信じるわよ、リリィちゃん!」
そして、手際良く閃光弾を矢につがえる。
「アリアさん! 行って!」
アヤが、ヒュドラの複数の眼球めがけて、閃光弾の矢を放つ。
――カッ!
強烈な光が炸裂し、ヒュドラが苦悶の咆哮を上げた。その隙に、リリィが梁から飛び降り、影から影へと跳び移りながら、その巨体を攪乱し始める。
「……助かる!」
僕は、仲間たちに後を託し、踵を返した。
目的地は、一つ。
この全ての元凶が待つ、アリーナ最上階の、コントロールルーム。
僕は、壁を蹴り、瓦礫を踏み台に、凄まじい速度で駆け上がっていく。
眼下で繰り広げられる、仲間たちの死闘。
その想いを、無駄にはしない。
黒木の計画を、そして、その歪んだ正義を、完全に粉砕するために。
僕は、一筋の銀色の流星となって、敵の中枢へと、突き進んでいった。




