第71話:最後の罠
翌日の放課後。
防衛高校の空気は、昨日までの穏やかさが嘘のように、どこか張り詰めていた。
夜間部の合同実技訓練。その連絡が、今朝、全生徒に通達されたのだ。
場所は、地下に広がる、第一訓練施設。課題は、「対複数・連携戦闘訓練」。
「なんだか、急だね。こんな大規模な訓練」
訓練施設へ向かう廊下で、陽菜が不安そうに呟く。
「ああ。それに、昼間部の生徒たちも見学に来ているらしい」
僕の言葉に、陽菜はさらに眉をひそめた。僕たち夜間部の訓練を、昼間部の生徒が、それも大勢で見学するなど、前代未聞だった。
僕たちが、だだっ広い訓練施設に足を踏み入れると、その異様な光景に息を呑んだ。
アリーナの中央には、最新鋭の戦闘シミュレーターが設置されている。そして、その周囲を囲む観覧席には、陽菜の友人たちやクリスティーナをはじめ、多くの昼間部の生徒たちが、固唾を飲んで僕たちを見下ろしていた。
その中には、霧島校長の姿もあった。彼女は、腕を組み、氷のように冷たい表情で、アリーナの中央をただ見つめている。
「――全員、整列!」
拡声器を通した、甲高い声が響き渡る。
教官席の中央に立っていたのは、黒木教授だった。その顔には、いつもの温厚な笑みが浮かんでいる。だが、その目の奥は、獲物を前にしたハイエナのように、ギラギラとした狂気に満ちていた。
(……やはり、こいつが)
僕は、静かに警戒レベルを引き上げた。
「本日の訓練は、諸君らの連携能力を測る、重要なテストだ。シミュレーターから放出される、複数の仮想怪異を、チームで連携し、いかに迅速に鎮圧できるか。……その実力、存分に見せてもらおう」
黒木は、そう言うと、特に僕――アリアの顔を、ねめつけるように見つめた。
「特に、アリア特待生。君には、大いに期待しているよ。その規格外の力で、他の生徒たちの手本となるような、素晴らしい戦いを見せてくれることをね」
その言葉は、激励というよりは、呪詛に近かった。
訓練が開始される。
僕たちは、指定されたチームに分かれ、次々とアリーナの中央へと向かった。
仮想怪異との戦闘は、順調に進んでいく。僕も、エネルギー消費を抑えながら、的確に敵の弱点を突き、チームを勝利に導いていた。
観覧席からは、「すげぇ……」「あれがアリアか」という、感嘆の声が聞こえてくる。
だが、僕はずっと、胸の内に燻る、強烈な違和感を感じていた。
(……何かが、おかしい)
黒木の狙いは、何だ? ただ、僕の実力を見せつけるだけで、終わるはずがない。
必ず、何か、裏がある。
そして、僕のチームの訓練が終わり、最後のチームがアリーナに入った、その時だった。
――ガコンッ!!
突如、訓練施設全体が、激しい揺れと共に、不気味な金属音を響かせた。
「な、なんだ!?」
生徒たちが動揺する。
アリーナの中央、シミュレーターが設置されていたはずの床が、巨大な口を開け、地下からせり上がってきたのは――本物の、巨大な檻だった。
その中には、見たこともないほど巨大で、全身から禍々しいオーラを放つ、多頭の蛇型怪異――ヒュドラが、とぐろを巻いていた。その瞳は、赤い光を放ち、明らかに理性を失っている。
「……なっ! あれは、訓練用の怪異ではないぞ!」
「なぜ、こんなものがここに!」
教官たちが、悲鳴に近い声を上げる。
観覧席の生徒たちも、パニックに陥り、出口へと殺到し始めた。
その混乱の中、黒木教授だけが、恍惚とした表情で、檻の中のヒュドラを見つめていた。
(そうだ……! それでいい!)
彼の脳裏には、完璧なシナリオが描かれていた。
このヒュドラは、彼が裏ルートで手に入れ、昨夜のうちに、この場所に仕込んでおいたものだ。そして、先ほど、遠隔操作で『キマイラ・レイジ』を投与し、強制的に凶暴化させた。
――ガキィィィィンッ!!!
ヒュドラは、その巨体で檻に何度も体当たりし、分厚い鋼鉄の格子が、みしみしと音を立てて歪んでいく。
「まずい! 檻が、破られるぞ!」
黒木は、拡声器を手に取り、高らかに叫んだ。
「アリア特待生! 聞こえているか! 君の力が必要だ! あの怪異を、今すぐ鎮圧したまえ!」
それは、命令だった。
そして、巧妙に仕組まれた、最後の罠。
僕が、もしヒュドラを倒せなければ、「特待生のくせに、この程度の怪異も倒せないのか」と、その無能さを詰られる。
もし、倒せたとしても、彼はこう言うだろう。
「見ろ! アリア特待生は、あまりにも危険すぎる! 彼女の力の暴走が、この惨事を引き起こしたのだ!」と。
どちらに転んでも、僕を社会的に抹殺するための、完璧な舞台。
「さあ、どうするね? アリアくん」
黒木は、マイクのスイッチを切り、僕にだけ聞こえるように、愉悦に満ちた声で呟いた。
「君のせいで、ここにいる生徒たちが、皆殺しになるかもしれんのだぞ?」
その時、ヒュドラの最後の体当たりが、檻の扉を完全に破壊した。
「グルォォオオオオオオッ!!」
解き放たれた厄災が、自由を祝うかのように、咆哮を上げる。
その巨大な影が、パニックに陥る生徒たちの上に、絶望的に、覆いかぶさった。
僕の平穏な日常は、今、轟音と共に、完全に崩れ去ろうとしていた。




