第70話:嵐の前の静けさ
黒木教授が、破滅への引き金を手に、夜の闇へと消えていったことなど、僕たちは知る由もなかった。
身体測定事件の後、学園は嘘のように静けさを取り戻していた。黒木派の教師たちも鳴りを潜め、僕への嫌がらせもぱったりと止んだ。
それは、嵐の前の、不気味なほどの凪だったのかもしれない。
その日の夜。
リビングのラグの上では、僕と陽菜、そしてリリィが、テレビゲームに興じていた。画面の中では、デフォルメされたキャラクターたちが、コミカルなレースを繰り広げている。
「あーっ! 蓮、また甲羅投げたでしょ!」
「お前こそ、バナナの皮を置くな!」
「にゃー!(そこだ、やれ!)」
コントローラーを握りしめ、一喜一憂する僕たち。その光景は、どこにでもある、ごく普通の、平和な放課後のワンシーンだった。
リリィは、すっかりこの家の生活に馴染み、今では僕の膝の上が、お気に入りの定位置になっている。喉を鳴らすゴロゴロという振動が、心地よく僕に伝わってきた。
僕は、ゲームのコントローラーを片手に、空いた手でリリィの柔らかいお腹をわしゃわしゃと撫でてやる。
「にゃんっ……! く、ぐるる……ごろごろごろ……」
リリィは、一瞬びくっと身体を震わせるが、すぐに気持ちよさそうに目を細め、無防備にへそ天ポーズになった。
(くっ……! は、破廉恥だにゃ! 人間の、しかも男の魂を持つ小僧に、腹を見せるなど……! で、でも……そこ、もっとだにゃ……ごろごろ……)
賢者としてのプライドと、猫としての本能が、彼女の中で激しくせめぎ合っているのを、僕は知る由もない。
ゲームに一区切りがついた後、陽菜は「ふぅ」と大きく伸びをすると、にこにことした顔で、僕に言った。
「ねえ、蓮。今日、お風呂に新しい入浴剤、入れたんだよ。すっごくいい匂いなんだから!」
「へぇ」
「だからね、たまには、私が蓮の髪、洗ってあげようか?」
「……は?」
僕は、思わず膝の上のリリィを落としそうになった。
「え、いいじゃない! 蓮の髪、すっごく綺麗なんだから、私がちゃんとケアしてあげたいの! ね、お願い!」
両手を合わせ、上目遣いで僕を見つめてくる陽菜。その後ろでは、リリィが「やれやれだにゃ」とでも言いたげな顔で、毛づくろいを始めている。
僕に、断るという選択肢はなかった。
湯気が立ち込める、暖かい風呂場。ラベンダーの優しい香りが、鼻腔をくすぐる。
洗い場に並んで座り、僕はされるがままに、陽菜に頭を預けていた。
「じゃあ、いくよー」
陽菜の、小さな、柔らかな指が、僕の髪を優しく泡立てていく。シャンプーの香りと、彼女自身の甘い匂いが混じり合って、僕の思考を少しずつ麻痺させていく。
すぐ背後から感じる、陽菜の体温。
時折、耳元で聞こえる、楽しそうな鼻歌。
(……まずい。これは、心臓に悪い)
僕は、羞恥心と、抗いがたい心地よさの狭間で、ただ目を閉じるしかなかった。
男だった頃の自分が「最高だ」と喜びの声を上げ、今の少女の自分が「気持ちいい」と身を委ねている。そのちぐはぐな感覚が、僕の顔を、耳まで真っ赤に染め上げていた。
「はい、おしまい! ふわふわになったね!」
満足げに僕の髪を洗い終えた陽菜は、にこりと笑った。
その、一点の曇りもない笑顔。
この笑顔を、この温かい時間を、守りたい。
僕は、心の底から、そう思った。
風呂から上がり、髪を乾かしてもらった後、僕たちはそれぞれの部屋へと戻った。
僕は、ベッドに横になりながら、今日の、他愛もない出来事を反芻していた。
陽菜の笑顔、リリィの寝顔、友人たちの騒がしさ。
その全てが、今の僕にとっては、かけがえのない宝物だ。
その宝物が、今まさに、邪悪な手によって壊されようとしていることを、僕はまだ知らない。
――同時刻。防衛高校、地下訓練施設。
冷たいコンクリートの壁に囲まれた、薄暗い廊下。
黒木教授は、警備システムの死角を縫うように、静かに歩みを進めていた。
その手には、禍々しい紫色の液体が入った、数本のアンプルが握られている。
彼の目的地は、施設の最奥。厳重な檻の中で、数体の訓練用怪異が眠っている、飼育エリアだった。
「ふふふ……。ショーの始まりだ」
黒木は、歪んだ笑みを浮かべると、飼育システムの制御パネルに、何らかの装置を取り付け始めた。
嵐は、もう、すぐそこまで迫っている。
僕たちの、穏やかな夜は、これが最後になるのかもしれない。
そんなこととは露知らず、僕は、陽菜のシャンプーの香りが残る自分の髪に、少しだけ心を弾ませながら、ゆっくりと眠りへと落ちていった。




