第69話:黒木の焦り
国立防衛大学、深夜の研究室。
その部屋の主である黒木教授は、一人、苛立ちのままにデスクの上の書類を床に叩きつけた。
ばさり、と虚しい音を立てて、紙の束が散らばる。
「くそっ……! くそっ! くそぉっ!!」
普段の温厚な教授の姿からは、想像もつかないほどの、獣のような呻き声。銀縁の眼鏡の奥で、その瞳は血走っていた。
計画が、ことごとく、裏目に出ている。
ネットを使った情報操作は、素人の女子生徒たちによって、いとも簡単に鎮火させられた。
身体測定での公開処刑は、逆にアリアという存在の神秘性を高め、信奉者を増やす結果に終わった。
手駒にしていた鈴木たちは、尻尾を掴まれてあっさり切り捨てられた。
そして、今。彼の背後からは、得体の知れない巨大な影が、じりじりと迫ってきている。
――ピリリリリ……!
デスクの内線が、けたたましく鳴り響く。
「……何だ!」
乱暴に受話器を取ると、聞こえてきたのは、彼が息をかけていた理事の一人の、震える声だった。
『く、黒木君! 大変だ! エルロード商会が、我々の大学への寄付金を、全面的に停止すると通告してきた! 理由も告げずにだ!』
「なんだと!?」
『それだけではない! 君の、過去の研究に関する不正疑惑が、再び理事会で取り沙汰されている! 証拠まで添えて、何者かが告発状を送りつけてきたんだ! もう、君を庇いきれん!』
ガチャン、と一方的に電話が切れる。
黒木は、受話器を握りしめたまま、わなわなと震えた。
エルロード……クリスティーナ・エルロード。あの小娘か。
そして、このタイミングで、完璧すぎる証拠を送りつけてくる、謎のハッカー。
さらに、学園の内部では、霧島レイカが、まるでこちらの動きを全て先読みしているかのように、完璧な防衛網を敷いている。
全ての駒が、自分を包囲し、追い詰めてくる。
まるで、見えざる誰かが、このゲーム盤全体を支配しているかのような、圧倒的な敗北感。
(このままでは、終わる……!)
ハイエナは、追い詰められた時、最も危険な牙を剥く。
黒木は、よろめくように立ち上がると、研究室の奥にある、厳重にロックされた保管庫へと向かった。
指紋認証、虹彩認証をクリアし、重い鋼鉄の扉を開ける。
その中にあったのは、研究資料ではない。
壁に掛けられた、数本の、禍々しいオーラを放つ注射器。そして、その下には、裏ルートで手に入れた、非合法な戦闘用薬品のアンプルが、ずらりと並んでいた。
「……こうなれば、もう、手段は選んでいられん」
彼は、その中から一本のアンプルを手に取った。ラベルには、『キマイラ・レイジ』と記されている。怪異の細胞から抽出した、対象を強制的に凶暴化させ、理性を奪う劇薬だ。
「アリア……霧島レイカ……クリスティーナ・エルロード……」
黒木は、憎しみを込めて、その名前を呟く。
「お前たちが、私をここまで追い詰めたのだ。ならば、相応の報いを受けてもらう」
彼の脳裏に、最後の、そして最も確実な計画が、形を成していく。
学園の、地下訓練施設。あそこには、有事の際に備え、数体の訓練用怪異が、厳重な管理下で飼育されている。
あのシステムに、外部から干渉し、この『キマイラ・レイジ』を投与する。そして、檻のロックを全て解除すれば――。
学園は、阿鼻叫喚の地獄と化すだろう。
暴走した怪異たちが、生徒たちを襲う。その大混乱の中、アリアという特待生が、その責任を問われることは避けられない。いや、混乱の中で、『事故死』してくれれば、それが一番良い。
そうなれば、霧島校長の監督責任問題は、決定的なものとなる。
「ふふ……ふふふふふ……!」
乾いた笑い声が、静かな研究室に響き渡る。
もはや、彼の心に、教育者としての理性など、一片も残っていなかった。ただ、己のプライドを踏みにじった者たちへの、ドス黒い復讐心だけが、その身を突き動かしている。
黒木は、アンプルと数本の注射器を、アタッシュケースに詰め込んだ。
そして、普段の温厚な教授の仮面を、再びその顔に貼り付ける。
「少し、夜の散歩にでも出るとしようか」
彼は、静かにそう呟くと、誰にも気づかれぬよう、深夜の大学を後にした。
自らの破滅へと繋がる、最後の引き金を、その手に握りしめて。
嵐の前の、不気味なほどの静けさが、学園の夜を、支配していた。




