第66話:リリィの小さな冒険
蓮が、電子の魔女から渡された「弾丸」を手に、霧島校長との対決を決意していた、その同じ夜。
橘家のアパートの一室では、もう一つの小さな影が、静かに動き出していた。
「……すー……すー……」
陽菜の部屋のベッドの上で、彼女は気持ちよさそうに寝息を立てている。その腕の中には、大きなクマのぬいぐるみが抱きしめられていた。
そのベッドの足元で丸くなっていた黒猫――リリィは、ゆっくりと金色の瞳を開いた。
(……陽菜は、寝たな)
リリィは、音もなくベッドから飛び降りると、しなやかな足取りでリビングを横切り、ベランダの窓の、ほんのわずかな隙間から、夜の闇へと滑り出した。
今夜は、月が雲に隠れ、諜報活動には絶好の夜だった。
リリィは、屋根の上を、まるで液体のように滑らかに駆け抜けていく。目指すは、防衛高校。
(アリアたちが掴んだ証拠は、黒木の『過去』の罪。だが、あの男が、このまま大人しく引き下がるとは思えん。必ず、次の一手を考えているはずだにゃ)
彼女の賢者としての勘が、そう告げていた。
物理的な証拠。それさえあれば、あのハイエナの息の根を、完全に止めることができる。
防衛高校の敷地にたどり着いたリリィは、猫の身軽さを最大限に活かし、警備の目をかいくぐって校舎内へと侵入した。
目指すは、黒木教授の研究室がある、教員棟の最上階。
リリィは、配管やダクトを使い、音もなく、しかし迅速に階を上がっていく。
やがて、目的の研究室のドアの前にたどり着いた。鍵は、厳重な電子ロックがかかっている。
(……さて、どうするかにゃ)
リリィがそう思った時、首輪のマーカーが、ぴぴっ、と微かに振動した。
『――猫さん、お困りですか? ドアのロックなら、30秒だけ解除してあげますよ』
脳内に、直接響くような、エレクトラの合成音声。
(……あの魔女め! やはり、監視していたか!)
リリィは悪態をつきながらも、その申し出をありがたく受け取ることにした。
カチャリ、と小さな音を立てて、ロックが外れる。
リリィは、ドアの隙間から、素早く研究室の中へと滑り込んだ。
室内は、本や資料の山で埋め尽くされている。その中央の、大きなデスクの上。パソコンのモニターだけが、ぼんやりと光を放っていた。
リリィは、そのデスクの上へと、軽やかに飛び乗る。
(……あった)
モニターの横に、無造作に置かれた数枚の書類。
その一番上の書類には、こう書かれていた。
『【極秘】特殊個体(怪異)購入に関する覚書』
リリィは、金色の瞳を細める。
書類には、裏ルートで取引されている、極めて凶暴な訓練用の怪異のリストと、その購入計画が詳細に記されていた。そして、その計画の最終目的として、『訓練中の事故に見せかけた、アリア特待生の排除』という、おぞましい一文が。
(……これだにゃ!)
リリィは、陽菜が自分用に買ってくれた、子供用の小さなスマホ(もちろん、エレクトラによる魔改造済み)を、器用に前足で操作し、その計画書を一枚一枚、丁寧に撮影していく。
全ての撮影を終え、これで任務完了、と思った、その時だった。
カチャリ、と研究室の外の廊下から、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
(まずいにゃ! 誰か来た!)
リリィは、慌ててデスクから飛び降り、隠れる場所を探す。
だが、焦っていたせいか、着地に失敗し、近くにあったゴミ箱に、頭からずっぽりと嵌ってしまった。
「に、にゃーっ!?(抜けん!)」
リリィが、ゴミ箱の中で必死にもがいていると、研究室のドアがゆっくりと開いた。入ってきたのは、見回りの警備員だった。
(終わったにゃ……!)
リリィが観念した、その瞬間。
足元の、ゴミ箱の影が、不自然に揺らめいた。
まだ、自分の意思では完璧に制御できない、あの力――「影渡り」。
(……い、今だにゃ!)
リリィは、最後の望みをかけ、その影に意識を集中した。
とぷんっ。
ゴミ箱ごと、リリィの身体が、影の中へとずぶずぶと沈んでいく。
「ん? 何か、物音がしたような……」
警備員が、怪訝そうに室内を見回す。だが、そこには、少しだけ位置がずれたゴミ箱があるだけで、侵入者の姿はどこにもなかった。
「……気のせいか」
警備員は、首を傾げながら、部屋を出ていった。
一方、リリィは、廊下の隅の暗がりから、ゴミ箱を頭にかぶったまま、ぽすんっ、と姿を現していた。
(……あ、危なかったにゃ……)
ほうほうの体で、彼女はゴミ箱から頭を抜き、再び夜の闇へと駆け出していった。
こうして、リリィの初めての本格的な諜報活動は、いくつかのハプニングに見舞われながらも、見事な成功を収めた。
彼女が手に入れたこの「未来の証拠」が、黒木教授を断罪するための、最後の、そして最も強力な切り札となることを、まだ誰も知らない。
小さな賢者の、大きな冒険は、静かに、しかし確かに、歴史を動かしていた。




