第7話:二人だけの作戦会議
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がして、僕は慌ててベッドに戻った。どうやら、陽菜が帰ってきたらしい。平然を装わなければ。心臓が、少しだけドキドキと音を立てていた。
「ただいまー! 蓮、大丈夫だった?」
大きな買い物袋をいくつも抱えた陽菜が、部屋に顔を出す。
「ああ、大丈夫だ。おかえり」
「よかった。色々買ってきたからね! まずは蓮の服でしょ、それから……あ、今日の晩ごはん、オムライスでいい?」
「……うん」
僕の好物だ。陽菜は僕が落ち込んでいる時、いつもオムライスを作ってくれた。その気遣いが、胸に温かく染みる。
陽菜がキッチンで料理を始める間、僕は手持ち無沙汰にベッドに座っていた。トントンと包丁がリズミカルにまな板を叩く音、じゅうじゅうとケチャップライスを炒める美味しそうな音と香り。それは、数時間前まで感じていた絶望的な孤独感を、少しずつ癒してくれるようだった。
「はい、できたよ!」
テーブルに並べられたのは、ふわふわの卵が乗った完璧なオムライスだった。ケチャップで描かれているのは、少し不格好なクマの顔。
「……ありがとう」
二人で向かい合って、無言でスプーンを動かす。でも、気まずさはない。久しぶりに食べる陽菜の手料理は、やっぱり世界で一番美味しかった。
食事を終え、食器を片付け終えた陽菜は、なぜかソワソワと落ち着かない様子で、僕に言った。
「さ、蓮! 先にお風呂、入っちゃって!」
「え? ああ、うん」
「タオルとか、着替えとか、全部用意してあるから! 身体、冷やさないようにね!」
妙にテキパキとした陽菜に促されるまま、僕は脱衣所へ向かった。そこには、新しいタオルと、陽菜が買ってきてくれたであろう可愛らしいデザインのパジャマが用意されていた。……もちろん、下着も。
僕が風呂場へ消えたのを確認し、陽菜は一人、リビングで拳を握りしめていた。
(よし……蓮がお風呂に入った。ここからが勝負……!)
彼女の脳内では、壮大な作戦が繰り広げられていた。
(蓮は今、心も身体も不安定なはず。私がしっかりしないと。そのためには、まず身体のことから慣れてもらわないと……。そう、これは全部、蓮のため……!)
深呼吸を一つ。しかし、これからやろうとしていることを想像すると、顔に熱が集まってくる。
(だ、大丈夫。蓮は今、女の子。私も女の子。女の子同士なんだから、何も問題ない……。女の子同士なんだから……)
ぶつぶつと呪文のように小声で自分に言い聞かせ、頬をぎゅ~っと両手で挟み込む。
「よしっ!」
気合を入れた陽菜は、意を決して脱衣所へと向かった。
湯船に浸かって、「はぁー…」と安堵のため息が漏れる。緊張と疲労で凝り固まっていた身体が、ゆっくりとほぐれていく。
このまま、ずっとこうしていたい。そんなことを考えていた時だった。
ガチャッ!
「れ、蓮! 背中、流してあげる!」
突然、風呂場のドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、タオル一枚でかろうじて前を隠した、耳まで真っ赤になった陽菜だった。
「ひ、陽菜!? なんで!?」
「だ、だって! 女の子同士は、こ、これが普通だから!」
彼女は明らかにテンパりながら、ロボットのようなぎこちない動きで風呂場に入ってくる。
「問題しかないだろ!」
僕は慌てて湯船の奥に後ずさり、両腕で自分の胸を隠す。
「も、問題ないの! い、いつも、お母さんとこうやって入ってるから、ふ、ふふ普通なの!」
「絶対嘘だ!」
「嘘じゃないもん!」
真っ赤な顔で、涙目になりながら反論してくる。その姿は、なんだか必死で、少しだけ可愛く見えてしまった。
「い、いいから、じっとしてて!」
陽菜は洗い場に座ると、僕の背中にシャワーをかけ始めた。その手つきは、ひどく震えている。
「…う…お、おい」
「な、何よ!」
「……冷たい......」
「ごめんなさぁい!」
しっちゃかめっちゃかだ。
結局、陽菜に背中を流してもらうんだか、泡だらけにされるんだかわからない時間を過ごし、二人してのぼせる寸前で風呂から上がった。
先にリビングで涼んでいた僕のところに、同じパジャマの色違いを着た陽菜がやってくる。その手には、ドライヤーが握られていた。
「……蓮、こっち来て。髪、乾かしてあげる」
まだ少し顔は赤いけれど、さっきよりは落ち着いているようだ。
僕が床に座ると、陽菜はその後ろから、優しい手つきで銀色の髪を乾かし始めた。
温かい風と、陽菜の指が髪を梳く感触が心地いい。
「……すごい髪だよね。綺麗だけど、お手入れ大変そう」
「……そう、かもな」
「私が毎日、やってあげるよ」
「え?」
「だから、髪。乾かすのも、結ぶのも。蓮、自分でできないでしょ?」
そう言って、陽菜は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、僕の心も、不思議と軽くなっていくのを感じた。
この先どうなるかは、まだわからない。
でも、陽菜が隣にいてくれるなら、きっと大丈夫だ。
そんな根拠のない自信が、胸の奥に芽生え始めていた。
銀色の髪がふわりと乾き、陽だまりの匂いがした。それは、陽菜のシャンプーの匂いだった。
髪も乾かし終え、部屋の電気を消すと、訪れた静寂と暗闇が、昼間の出来事を嘘のように感じさせた。
問題は、ここからだった。
この部屋には、ベッドが一つしかない。陽菜のシングルベッドだ。
「……あの、僕、床で」
「だーめ!」
言い終わる前に、陽菜に一蹴された。
「けが人はベッド! それに、女の子同士なんだから、一緒に寝るのも普通なの!」
もはや彼女の伝家の宝刀となった「女の子同士理論」を振りかざし、陽菜は僕の手を引いてベッドに押し込む。そして、自分もその隣に滑り込んできた。
一枚の掛け布団の下、少女二人分の体温が、じわりと空間を温める。
近い。あまりにも、近い。
隣から、陽菜のシャンプーの甘い香りと、ドキドキと速い鼓動が伝わってくるようで、僕の心臓も早鐘を打ち始めた。
「……」
「……」
どちらともなく、寝返りを打って、お互いに背を向ける。
気まずい沈黙。耳に聞こえるのは、自分の心臓の音と、陽菜のかすかな息遣いだけ。
(寝れない……当たり前だ……!)
どう考えても眠れる状況じゃなかった。しかし、背中越しに感じる陽菜の温かさは、孤独な恐怖を少しずつ溶かしてくれるようでもあった。
激動の一日の疲れも相まって、僕の意識は、いつしか深い眠りの中へと沈んでいった。
僕が眠りに落ちたのを、背中越しに感じ取った陽菜は、ゆっくりとこちらを振り返った。
月明かりに照らされた蓮の寝顔。銀色の髪が、枕に広がっている。その穏やかな表情を見て、陽菜は安堵のため息をついた。
(寝た……よかった)
緊張から解放され、どっと疲れが押し寄せる。
でも、それと同時に、胸の奥から温かい感情がこみ上げてきた。
蓮が、ここにいる。
失ったと思っていた幼馴染が、すぐ隣で眠っている。その事実が、何よりも愛おしかった。
陽菜は、そっと蓮の身体に腕を回した。
華奢だけど、確かにそこにある温もり。
「……おかえリ」
小さく呟き、ぎゅーっと、壊れ物を扱うように優しく抱きしめる。蓮の穏やかな寝息を聞きながら、陽菜もまた、ドキドキと高鳴る心臓を抱えたまま、ゆっくりと眠りについたのだった。




