第60話:夜の作戦会議
カチャリ、と静かな音を立てて、マグカップがテーブルに置かれた。
立ち上る湯気と、コーヒーの香ばしい匂いが、夜のリビングを満たしていく。
「……ありがとう、陽菜」
「どういたしまして。大変だったね、今日」
僕の向かいに座った陽菜は、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。フードとマスクは外しているが、サングラスはかけたままだった。何となく、今の疲れた顔を、彼女に真正面から見られたくなかった。
僕は、今日あった出来事――田中教師の粘着質な質問と、持久走での見え透いた罠について、陽菜にぽつりぽつりと話し始めた。
「……明らかに、俺を狙ってのことだ。特待生という立場を、快く思わない連中がいるんだろう」
「ひどい……! そんなの、ただのいじめじゃない!」
陽菜は、自分のことのように拳を握りしめ、憤りを露わにする。
「だが、ただの嫌がらせとは思えない。組織的な動きだ。背後で、誰かが糸を引いている」
僕がそう言うと、陽菜の顔から怒りの色がすっと引き、真剣な表情へと変わった。
「……伊集院権三の、残党、とか?」
「可能性は否定できないな。とにかく、しばらくは警戒が必要だ」
僕たちが、そんなシリアスな会話を交わしている、その足元。
ソファの下の暗がりで、一匹の黒猫が、息を潜めていた。
リリィは、僕たちの会話を一言一句聞き漏らすまいと、その尖った耳をそばだてている。
(……やはり、アリアも気づき始めたか。だが、まだ核心には至っていないにゃ)
リリィは、ここ数日、夜な夜なアパートを抜け出しては、独自の調査を続けていた。
猫の身軽さは、諜報活動において最大の武器だ。音もなく屋根を伝い、開いた窓の隙間から校舎に忍び込むことなど造作もない。
――数時間前の、夜の防衛高校、職員室。
リリィは、月明かりが差し込む職員室の、ロッカーの上の影に、完璧に溶け込んでいた。
昼間、アリアに嫌がらせをしていた田中教師が、誰かと電話で話している。
「ええ、黒木先生。本日の件ですが、あのアリアという生徒、予想以上に……いえ、全く堪えていない様子でして……」
リリィは、なんとかこの会話を記録しようと念じる。すると、首輪に仕込まれたマーカーが微かに振動し、録音機能が起動したことに気づいた。
(……あの魔女め、こんな機能まで仕込んでいたのかにゃ?)
不本意だが、今は利用させてもらうしかない。
(クロキ……。やはり、こいつが黒幕か)
電話を終えた田中は、別の教師と合流し、ひそひそと話を始めた。
「霧島校長も、我々の動きに気づいているかもしれませんな」
「構わんさ。我々の目的は、アリア本人ではない。あの小娘を揺さぶることで、校長の指導力に疑問符をつけ、理事会で彼女を孤立させることができれば、それでいいのだ」
彼らの会話から、敵の真の目的が、学園の権力闘争にあることを、リリィは完全に把握していた。
(……ふん。くだらないにゃ)
情報を得たリリィは、来た時と同じように、静かにその場を去ろうとした。
だが、その時。職員室のドアが開き、見回りの警備員が入ってきた。
「まずいにゃ!」
咄嗟に身を隠そうとしたリリィは、焦ってロッカーの上から足を滑らせ、近くにあった観葉植物の鉢に、にゃんとも情けない格好で不時着してしまった。
ガシャーン!
「ん? 何の音だ?」
警備員が近づいてくる。絶体絶命!
リリィは、最後の手段を使った。まだ不完全な「影渡り」。
足元の、植木鉢の影に、意識を集中する。
(沈め、沈め……!)
とぷんっ。
警備員が植木鉢を覗き込む、ほんの数秒前に、リリィの身体は影の中へと消え、廊下の先の暗がりから、ほうほうの体で脱出したのだった。
――そして、現在。橘家リビング。
ソファの下で、リリィは先ほどの潜入調査で得た情報と、蓮たちの会話を頭の中で繋ぎ合わせていた。
(……アリアを失脚させることで、その背後にいる霧島校長を叩く。これが、敵の狙いだ。これは、学園の権力闘争……人間というのは、本当に面倒な生き物だにゃ)
彼女は、金色の瞳を鋭く光らせた。
リリィは、そっとソファの下から滑り出ると、誰にも気づかれぬよう、ベランダの窓の隙間から、夜の闇へと姿を消した。
彼女には、彼女なりの方法で、この新たな敵と戦う準備がある。
小さな賢者の、孤独な戦いが、静かに始まろうとしていた。
――同時刻。第七区画、雑居ビル最上階。
暗闇の中、無数のモニターだけが煌々と光を放つ部屋で、カタカタカタッ、と軽快なタイピング音だけが響いていた。
相良慧――エレクトラは、リリィの首輪のマーカーから送られてくる音声データと映像(植木鉢ダイブの瞬間も含む)を、にやにやしながら解析していた。
「……ふふ。あの猫さん、ちゃんと追加機能に気づいたみたいね。それに、このドジっ子っぷりも、なかなか可愛いわ」
彼女は、リリィが得た情報と、自身がサーバーから抜き出した情報を組み合わせ、黒木教授の陰謀の全体像を、完璧に描き出していた。
「女神様の物語を、こんなくだらない脚本で汚させはしないわ。あなたたちには、最高の舞台装置として、最高の形で、退場してもらうんだから」
彼女は、ヘッドセットのマイクをオンにすると、どこかへと通信を始めた。相手は、クリスティーナの執事、セバスチャンだった。
「もしもし、セバスチャンさん? ええ、私です。少し、面白い情報があるのだけれど……おたくのお嬢様に、お伝え願えるかしら?」
電子の魔女は、静かに、そして確実に、反撃の網を張り巡らせていく。
僕と陽菜が、目の前の小さな波紋に気を取られている間にも。
その水面下では、頼もしすぎる仲間たちが、すでにもっと大きな嵐の正体を掴み、それぞれのやり方で、戦いの準備を始めていた。
盤上の駒は、僕たちの知らないところで、複雑に絡み合い、次の局面へと進もうとしている。
静かな夜は、こうして、ゆっくりと更けていった。




