第59話:最初の波紋
防衛高校、夜間部の座学教室。
蛍光灯の白い光が、使い込まれた長机を照らし、空気中には微かなチョークの匂いが漂っている。窓の外はすでに深い藍色に染まり、生徒たちの顔には昼間の仕事や訓練の疲れが滲んでいた。
僕も、そんな生徒の一人として、頬杖をつきながら授業を聞いていた。フードにマスク、サングラスという出で立ちは、このクラスではもうすっかり見慣れた光景になっている。
今日の授業は、旧世界史。
教壇に立つのは、最近になって赴任してきた、田中という中年教師だった。ねっとりとした視線と、嫌味なほど丁寧な口調。彼が、黒木教授と頻繁に連絡を取り合っている、黒木派の人間であることは、エレクトラからの情報で知っていた。
「――さて、諸君。今日は、20年前の大災害を引き起こした『空間震』の初期理論について、少し掘り下げてみようと思う」
田中は、そう言うと、教壇からゆっくりと教室を見渡し、僕の席の前で、ぴたり、と足を止めた。
教室中の視線が、自然と僕に集まる。
「アリア特待生。君は、この『エーテル物理学における相転移仮説』について、何か知見はあるかね?」
空気が、シン、と静まり返った。
それは、あまりにも専門的で、難解な質問だった。大学の専門課程で扱うような内容だ。高校生に、それも夜間部の生徒に問いかける内容ではない。
あからさまな、嫌がらせ。僕に恥をかかせ、特待生という立場に疑問を抱かせようという、浅はかで粘着質な悪意が、田中-の眼鏡の奥でギラリと光っていた。
近くの席の生徒が「おいおい、無茶言うなよ」と呆れたように呟くのが聞こえる。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
『エーテル物理学における相転移仮説』。
その単語を聞いた瞬間、僕の脳内で、アリアの知識データベースが自動的に検索を開始した。膨大な情報が瞬時に展開され、最適化されていく。
僕は、静かに立ち上がった。
「……その仮説は、大災害以前、物理学者アルフレッド・シュタインが提唱した理論。彼は、我々の認識する三次元空間とは別に、高次元に存在するエネルギー素子『エーテル』の存在を仮定しました。そして、何らかの外的要因でエーテルの位相が崩れた時、そのエネルギーが低次元である我々の世界に漏れ出し、空間そのものを『相転移』させる……それが、空間震の正体である、と」
澱みなく、淡々と。まるで、教科書を読み上げるかのように、僕は語り始めた。
「シュタインの論文は、当時、異端として学会から黙殺されましたが、その後の研究で、彼の理論を裏付けるいくつかの観測データが……」
教室は、水を打ったように静かだった。
生徒たちは、僕が語る超高度な専門知識に、ただ呆然と口を開けている。
田中は、僕がスラスラと答えるのが信じられないといった顔で、額に脂汗を浮かべていた。
「……な、なぜ、君がそこまで……」
「授業の、続きを」
僕は、それだけを告げると、静かに席に着いた。
その後の授業で、田中が僕に質問をすることは、二度となかった。
――そして、放課後の実技訓練。
夜の訓練場は、カクテル光線に照らされ、ひんやりとした空気に満ちていた。
今日の訓練メニューは、持久走。グラウンドをひたすら走り続けるという、単純だが、最も基礎体力が問われる訓練だ。
担当教官は、もちろん黒木派の一人。彼は、僕の前に立つと、わざとらしく大きな声で言った。
「いいか、貴様ら! 今日のノルマは、30分以内にグラウンド50周(10キロ)だ! 特待生といえど、例外は認めん! 特にアリア!」
彼は、僕を名指しで睨みつけた。
「瞬発力は規格外だが、継続的な能力行使――つまり、持久力には大きな課題があると聞いている。皆の手本となるよう、スキルを使ってでも、最後まで走りきれ! いいな!」
その言葉に、他の生徒たちが「アリアって、持久力ないのか」「瞬発力特化型かよ」と囁き合う。
教官の狙いは明白だった。僕に身体強化スキルを使わせ、すぐにガス欠を起こして倒れる無様な姿を、衆目に晒そうという魂胆だ。
「位置について、よーい……」
号砲を待つ生徒たちの間に、緊張が走る。
僕は、スタートラインに立ち、静かに息を吐いた。
(……なるほどな。スキルを使え、か)
僕の持久力がないのは、あくまでアリアの身体で「スキル」を使った場合の話。生命エネルギーを燃焼させるあの力は、燃費が悪すぎる。
だが、スキルを使わない――この、遺伝子レベルで最適化された肉体、そのものだけで走るのなら。
(……面倒だが、やるしかないか)
――パンッ!
乾いた号砲が、夜空に響き渡った。
生徒たちが一斉に走り出す。僕も、その流れに乗って、静かにスタートを切った。
スキルは使わない。ただ、純粋な筋力だけで、地面を蹴る。
最初は、他の生徒たちと変わらないペースだった。
だが、一周、二周と周回を重ねるごとに、僕のペースは全く落ちない。むしろ、身体が温まってきたのか、徐々に加速していく。
「はぁっ、はぁっ……」
10周を過ぎたあたりから、他の生徒たちの息が上がり始める。
20周を過ぎると、脱落者が出始めた。
30周。ほとんどの生徒が、歩くような速度になっている。
だが、僕だけは、スタート時と寸分違わぬ、美しいフォームのまま、淡々と走り続けていた。汗一つかかず、息も全く乱れていない。
「……な、なんだ、あいつは……」
「ペースが、全然落ちねぇ……」
「機械かよ……」
生徒たちの声が、驚愕と、そして畏怖の色を帯びていく。
教官も、信じられないといった顔で、僕の姿を目で追っていた。
(スキルを使っていない……だと!? 馬鹿な! スキルなしで、このペースを維持するなど、人間業ではない!)
彼の計画は、根底から崩れ去っていた。
そして、25分が経過した頃。
僕は、最後の50周目を走り終え、ゆっくりとペースを落としてゴールラインを通過した。
タイムは、世界記録を更新するほどの、驚異的なものだった。
だが、本当に異常なのは、タイムではない。
ゴールした僕が、全く疲れた様子を見せず、まるで準備運動を終えただけかのように、平然と立っていることだった。
「…………」
グラウンドには、まだ走り続けている生徒たちと、ゴール地点で呆然と立ち尽くす教官だけが残されている。
僕は、何事もなかったかのように、教官の元へ歩み寄った。
「……教官。ノルマは、達成しました。これで、終わりでよろしいでしょうか?」
「あ……ああ……」
教官は、もはや反論する気力もなく、力なく頷いた。
僕が訓練場を後にする背中に、生徒たちの囁き声が突き刺さる。
「……すげぇ。スキルなしであれかよ」
「持久力がないんじゃなくて、スキル使うと燃費が悪いってだけなのか……」
「どっちにしろ、化け物だろ……」
黒木派の教師が仕掛けた、ささやかな嫌がらせ。
それは、結果的に、僕――アリアという存在が持つ、力の「特異性」と、その底知れないポテンシャルを、学園中に鮮烈に知らしめるだけの、最高のデモンストレーションとなったのだった。




