第57話:黒きハイエナの目覚め
僕たちが、猫一匹に振り回される穏やかな朝を迎えていた、その同じ時刻。
第七区画を見下ろす丘の上に建つ、権威と伝統の象徴――国立防衛大学。その一室で、一人の男が、優雅に紅茶をすすっていた。
男の名は、黒木。
防衛大学で教鞭をとる、戦術理論学の教授だ。銀縁の眼鏡の奥で知的に輝く瞳と、物腰柔らかな口調は、学生や同僚からの評判も良い。
だが、その穏やかな仮面の下には、ハイエナのような、狡猾な野心が渦巻いていた。
「――以上が、先日の『バベル・アーク』襲撃事件に関する、伊集院権三氏の現状報告です」
デスクの前に立つ、若手の助手が、緊張した面持ちで報告を終える。
「ふむ。ご苦労」
黒木は、カップをソーサーに置くと、窓の外に広がる第七区画の街並みを見やった。
「伊集院権三も、落ちたものだ。息子の不始末に続き、あのような稚拙なテロまがいの計画……。巨大な船も、一度傾けば、沈むのはあっという間ということか」
その口調には、長年のパトロンであった男への同情など、微塵も感じられない。あるのは、ただ、死肉を漁る前の、冷徹な観察眼だけだ。
黒木は、長年、伊集院権三の資金援助を受け、この地位に上り詰めた。権三にとって、黒木は意のままに動く便利な「駒」の一人だったはずだ。
だが、ハイエナは、主が弱ったと見るや、その喉笛に牙を剥く。
(伊集院家は、もう終わりだ。だが、彼らが失った権力の『椅子』は、まだ空いている)
黒木は、新たなパトロンを探しつつ、自らがその「椅子」に座るための計画を、静かに練り始めていた。
そのための最初の標的は、決まっている。
伊集院権三と敵対し、今やその地位を盤石なものにした、防衛高校の校長――霧島レイカ。
「さて、と」
黒木は、デスクの内線電話の受話器を取った。相手は、防衛高校の理事会に籍を置く、古狸の一人だ。彼もまた、黒木が長年、甘い蜜を与えてきた「駒」である。
「もしもし、田所理事。ええ、私です。近頃、いかがお過ごしで?」
黒木は、蜂蜜のように甘く、しかし蛇のように粘りつく声で語りかける。
「実は、少し気になる噂を耳にしましてね。ええ、防-衛高校の、夜間部に在籍しているという、アリアという特待生のことです」
黒木は、手元の資料に目を落とす。そこには、僕の、公にされている情報がまとめられていた。
『アリア。年齢不詳。ギルドランクC(特例昇格)。スキル、なし。入学試験にて、測定不能の戦闘能力を記録』
「……実に、不透明だ」
「ええ、田所理事。まさに、そこが問題なのです。このような素性の知れない生徒を、霧島校長は、どのような基準で、それも『特待生』として入学を許可したのか。これは、教育機関としての公平性を著しく欠く行為ではないでしょうか?」
黒木は、巧みな話術で、理事の心に疑念の種を植え付けていく。
「いえいえ、私はただ、学園の未来を憂いているだけですよ。しかし、万が一、このアリアという生徒が、何か問題を起こした場合、その監督責任は、全て彼女を独断で入学させた、霧島校長にある。そうは、お思いになりませんか?」
電話を切った後、黒木は満足げに、再び紅茶を口にした。
これでいい。まずは、小さな火種を撒く。
霧島レイカという女は、有能だが、理想主義者すぎる。アリアという規格外の「劇薬」を受け入れたことこそが、彼女の最大のアキレス腱となるだろう。
「アリア、か。面白い駒だ。せいぜい、盤上で踊って、霧島レイカを失脚させるための、捨て石となってもらおうか」
黒木は、窓の外の街を見下ろし、にやり、と笑った。その顔は、もはや温厚な教授のものではない。
獲物を見つけ、その喉笛に食らいつく瞬間を、今か今かと待ちわびる、飢えたハイエナの顔だった。
僕たちの知らないところで、学園という名のチェス盤の上では、新たなプレイヤーが、静かに、しかし確実に、その駒を進め始めていた。
その最初の狙いが、僕――アリアに向けられていることも知らずに。




