第56話:猫のいる食卓
巨大な複合商業施設『バベル・アーク』での死闘から、しばらく過ぎた。
街を覆っていた嵐は過ぎ去り、僕たちの日常には、ようやく穏やかな時間が戻ってきた。……いや、正確には、以前よりも少しだけ賑やかになった、と言うべきか。
「リリィちゃん、朝ごはんよー! 今日は、最高級マグロを使った特製カリカリだからねー!」
リビングから聞こえてくる陽菜の弾んだ声に、僕は苦笑しながらベッドから身を起こした。
僕たちの秘密の同居生活に、あのずぶ濡れの黒猫――リリィが加わってから、これがすっかり我が家の日常風景となっていた。
リビングへ行くと、テーブルの上には、僕と陽菜の朝食の隣に、きらきらと輝く宝石のようなキャットフードが盛られた、可愛らしい猫用のお皿が置かれている。
ソファの上では、リリィが「ふぁ〜」と優雅なあくびを一つすると、すまし顔でテーブルへと歩み寄り、そのカリカリを上品に口にし始めた。
(……くっ、不本意だにゃ。だが、うまい……!)
そんな内心の葛藤が聞こえてきそうなほど、その食べっぷりは真剣そのものだった。
「もー、リリィは本当に可愛いんだから!」
陽菜は、食事をするリリィの頭を、うっとりとした表情で撫でている。
リリィは、一瞬だけ「にゃにするにゃ!」と身を固くするが、陽菜の優しい手つきに、すぐに喉をゴロゴロと鳴らし始めた。その姿は、どこからどう見ても、飼い主に甘えるただの可愛い猫だ。
だが、僕は知っている。
この猫が、ただの猫ではないことを。
時折、僕が一人でいると、リリィは物陰から、じっと僕の様子をうかがっている。その金色の瞳は、ペットが飼い主に向けるそれではない。何かを分析し、観察するような、人間じみた、鋭い知性の光を宿している。
(……一体、何者なんだ、こいつは)
川に落ちた一件も、あまりにタイミングが良すぎた。僕が一人でいる時を狙ったかのように。
僕の微かな疑念に気づいているのか、いないのか。リリィは、僕の視線に気づくと、ぷいっとそっぽを向き、再びカリカリに集中するふりをした。
ちょうど、陽菜が「あ、忘れ物!」と言って自分の部屋に戻った、その隙だった。
僕は、音もなくリリィの背後に回り込むと、その小さな身体をひょいと抱き上げた。
「にゃっ!?」
突然のことに、リリィが驚きの声を上げる。
「ちょっと、尋問の時間だ」
僕は、リリィをソファに押さえつけると、その柔らかいお腹に顔をうずめた。
「な、なにするにゃー!」
すんすん。んー、猫のにおい、良い~
お日様と、ミルクのような、甘くて香ばしい匂い。アリアの身体になってから、なぜか動物の匂いが心地よく感じる。
「うにゃーー! な、なにしてるにゃー! は、はずかしいにゃー!」
リリィは、手足をばたつかせて必死に抵抗するが、僕の力の前では無力だ。僕は構わず、その柔らかな身体をムニムニムニムニと揉みしだく。
(こ、この小僧…アリアの身体で、なんて破廉恥なことを…! で、でも、気持ちいいにゃ…ごろごろ…はっ、いかんいかん!)
「蓮? 何してるの?」
部屋から戻ってきた陽菜が、僕たちの姿を見て、目を丸くした。
「ああ、陽菜。こいつ、何か隠してると思ってな」
「もう、リリィと遊んでただけでしょ! ほら、リリィが嫌がってるから、離してあげて」
陽菜に窘められ、僕はしぶしぶリリィを解放した。リリィは、毛を逆立てながらも、どこかぐったりとした様子で、ソファの隅へと逃げていった。
「あ、そうだ! リリィ、今日、新しい首輪を買ってきたんだよ! ほら、見て見て! 可愛いリボンが付いてるの!」
陽菜が、ウキウキと紙袋から取り出したのは、大きなピンク色のリボンがついた、どう考えてもリリィの趣味ではなさそうな首輪だった。
「にゃっ!?」
リリィが、あからさまに嫌そうな顔で後ずさる。
「大丈夫、大丈夫! 絶対に似合うから!」
「ぐるるる……シャーッ!」
「こらこら、暴れないの!」
リビングで繰り広げられる、陽菜とリリィの微笑ましい(?)攻防戦。
僕は、それを横目にコーヒーを飲みながら、小さく笑った。
失ったものも多かった。だが、今の僕には、守りたいものが、確かにここにある。
この、猫が一匹増えただけの、ささやかで、かけがえのない日常。
そのすぐ外側で、新たな嵐が静かに生まれようとしていることを、僕たちはまだ、知る由もなかった。




