第5話:鏡の中の君は誰?
次に目が覚めた時、最初に感じたのは、ふかふかの布団の感触と、石鹸の優しい香りだった。
「……ん……」
ゆっくりと目を開ける。見慣れた木目の天井。壁には、僕と陽菜が小学生の頃に撮った写真が飾られている。
ここは、陽菜の部屋だ。
身体を起こそうとして、自分がサイズの大きな、可愛らしいクマの絵柄のパジャマを着せられていることに気づいた。それだけじゃない。その下に着ているものの感触が、明らかに自分の知っているものと違う。
「なっ…!?」
慌ててパジャマの襟元を少しだけめくって確認する。そこには、見慣れない布地が……。
顔がカッと熱くなる。
肩には丁寧に包帯が巻かれていた。あの時の傷の手当てもされているらしい。
ガチャリ、とドアが開く。
「あ、起きたんだ。よかった……」
お盆を持った陽菜が、心配そうな顔で入ってきた。
僕は咄嗟に布団を頭まで被った。
「だ、誰だお前!」
とっさに取り繕って、警戒するような声を出す。だが、それは震える少女の声だった。
陽菜は困ったように眉を下げると、お盆をサイドテーブルに置き、静かに言った。
「もう、無理しなくていいよ。……蓮」
その声は、絶対的な確信に満ちていた。
観念して、おそるおそる布団から顔を出す。
陽菜はベッドの脇に座ると、僕の――アリアの金色の瞳を、まっすぐに見つめてきた。その瞳は少し潤んでいて、でも、とても優しかった。
「……なんで」
か細い声で、それだけを尋ねるのが精一杯だった。
「なんでって……わかるよ、そんなの。ずっと一緒にいたんだから」
陽菜は当たり前のように言って、少しだけ笑った。
「戦い方とか、色々あったけど……一番は、なんとなく、かな。蓮だーって、思ったの」
「……なんとなく、って」
そんな曖昧な理由に呆れつつも、彼女のその直感が僕を救ってくれたのは事実だ。
陽菜は、僕の銀色の髪にそっと触れた。
「すっごく綺麗。……本当に、蓮なんだよね?」
確認するような問いかけ。僕はこくりと頷くしかなかった。
彼女の優しい手つきと声に、張り詰めていたものが、ぷつりと切れる。
「……陽菜……」
名前を呼んだら、視界が滲んだ。
「僕……死んだと思ったんだ。気がついたら、こんな姿に……」
「うん」
「怖かった。もう、陽菜に会えないかと思って……っ」
「うん」
陽菜は何も聞かず、僕が泣き止むまで、ずっと背中をさすってくれていた。
ようやく落ち着きを取り戻した僕に、陽菜は温かいスープを差し出した。それを飲み干し、少しだけ人心地がつく。
ふと、自分の服装の違和感が再び頭をもたげた。
「……なあ、陽菜」
「ん?」
「この服……パジャマだけじゃなくて、その……下のも、お前の?」
言った瞬間、空気が凍った。
陽菜の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。僕も顔が熱くなるのを感じる。
沈黙を破ったのは、陽菜だった。彼女はなぜかぷるぷると肩を震わせ、顔を背けながら叫ぶように言った。
「あ、うん! そうだけど!? 汗でドロドロだったから、身体拭いて、私のを着せといたの! 文句ある!?」
逆ギレだ。完全にテンパっている。
「え……あ……その……」
僕が言葉に詰まっていると、陽菜はガバッとこちらを振り返った。その顔はリンゴみたいに真っ赤だ。
「な、何よ!? 何か問題でもあるっていうの!?」
「いや、問題しかないだろ! み、見たのか!?」
思わず声を荒らげてしまう。すると陽菜は、一瞬「うっ」と詰まった後、さらに大きな声でまくし立てた。
「み、見たわよ! だ、だって、お、女の子同士なんだから、ふ、普通でしょ!?」
「ふ、普通!?」
「そ、そうよ普通! 女の子はね! 友達とお泊まり会したらね! い、一緒にお風呂入ったり! パジャマ交換したりするの! こ、これ、常識だから!」
明らかに動揺している。声は上ずり、視線はあらぬ方向を泳ぎまくっている。絶対、嘘だろ、それ。
だが、そんな僕の疑念を吹き飛ばすように、陽菜はバンッとベッドを叩いた。
「と、とにかく! 今の蓮は女の子なんだから、これは普通なの! いい!? わかった!?」
「そ、そうなのか……?」
「そうなのっ!!」
有無を言わさぬ、魂の叫びのような断言。その凄まじい勢いに、僕は完全に気圧されてしまった。僕の知らない「女子の常識(大嘘)」を前に、ぐうの音も出ない。
(よ、よし……! なんとか押し切った……! でも心臓が口から出そう……!)
そんな陽菜の脳内絶叫が聞こえてきそうなほど、彼女の必死さは伝わってきた。
「そ、それで! これからどうするのよ!? 学校とか、おじさんたちには……!」
ぜぇぜぇと肩で息をしながら、陽菜が無理やり話を本題に戻す。
「……わからない。僕は、あのスタンピードで死んだことになってるかもしれないし……」
下手をすれば、研究施設行きだ。
「じゃあ、ここにいればいいわよ!」
まだテンションが高いまま、陽菜は言い放った。
「え?」
「うちにいればいいってこと! お父さんもお母さんも、今は長期の壁外調査でいないし! 私が蓮の面倒、見るから!」
「でも……」
「でもじゃない! 友達が困ってるんだから、当たり前でしょ!」
陽菜はむーっと頬を膨らませる。
「それに、蓮が女の子の姿になっちゃったなら、私が近くにいた方が、色々便利でしょ? 服とか、さっきみたいなこととか!」
そう言って、また少し顔を赤くする。
確かに、陽菜がいてくれるのは、とてつもなく心強かった。
「……いいのか? 迷惑じゃないか?」
「迷惑なわけないでしょ。水臭いこと言わないで」
ようやく落ち着きを取り戻したのか、陽菜はツンと僕の額を軽く指で弾いた。
「おかえり、蓮。これからは、二人で一緒に考えていこう」
そう言って笑う彼女は、やっぱり太陽みたいだった。
僕は、この暗闇の中で、ようやく一筋の光を見つけた気がした。
こうして、僕、斎藤蓮と、明らかにテンパりながらも勢いで押し切ってくる幼馴染・橘陽菜の、誰にも言えない、ちょっと気まずくて、でも温かい奇妙な同居生活が始まったのだった。




