【間話】沈みゆく船と、新たな船出
伊集院翔の失墜は、彼を取り巻いていた者たちの運命も、大きく狂わせた。
第七区画の外れにある、薄汚れたビリヤード場。
そこで、数人の少年たちが、荒んだ様子で酒を飲んでいた。彼らは、伊集院翔の側近として、学園で威張り散らしていた取り巻き連中だ。今は、長期の停学処分を受け、行き場のない不満と苛立ちを、安酒で紛らわすことしかできない。
「……くそっ! なんで俺たちまで、こんな目に……!」
「全部、あの橘陽菜と、アリアとかいう奴のせいだ!」
「翔様は、今頃どうしてるんだ……」
彼らがそんな愚痴をこぼしていると、ビリヤード場の奥から、柄の悪い男たちが数人、にやにやしながら近づいてきた。
「よぉ、坊ちゃんたち。随分と、ご機嫌斜めじゃねえか」
リーダー格の、蛇のような目つきの男が、馴れ馴れしく声をかけてくる。
「……なんだ、てめえら」
取り巻きの一人が、凄んでみせる。だが、停学中とはいえ、彼らも防衛高校の生徒だ。チンピラ相手に、後れを取るはずがなかった。
「やんのか、コラ!」
売り言葉に買い言葉。あっという間に、乱闘が始まった。
だが、それはあまりにも一方的だった。取り巻きたちは、日頃の鬱憤を晴らすかのように、チンピラたちをいとも簡単に叩きのめす。
「……はぁ、はぁ……。雑魚が」
一人が、倒れた男に唾を吐きかけた、その時だった。
「――そこまでだ」
奥の扉から、先ほどの蛇の男の「アニキ」らしき、スーツ姿の男が静かに出てきた。彼の後ろには、数人の屈強な部下たちが控えている。
そして、彼が指差した先――ビリヤード場の隅で、先ほどの乱闘に巻き込まれた「一般人」の男が、頭から血を流して倒れていた。もちろん、全てが仕込みだ。
「うちの若いのが、おたくらに無礼を働いたのは謝ろう。だが、やりすぎじゃあないかな? 関係のない一般人に、重傷を負わせるとは。防衛高校の生徒さんともあろうお方が」
スーツの男は、にこやかに、しかし有無を言わせぬ圧力で言った。
「……こっちは、被害届を出してもいいんだがねぇ。そうなれば、君たちの停学処分じゃ、済まなくなる。退学、いや、傷害罪で少年院行きかな?」
「なっ……!?」
取り巻きたちの顔が、一気に青ざめる。
「まあ、まあ。穏便に済ませる方法も、なくはない。俺たちも、君たちのような、腕の立つ若い衆を探していたところでね。少し、俺たちの『仕事』を手伝ってもらえれば、今回のことは、全て水に流そう。どうだね?」
それは、巧妙に仕組まれた罠だった。
不満と焦りに付け込まれ、自らの暴力性を利用され、そして、取り返しのつかない弱みを握られる。
彼らは、気づけば、伊集院翔という船から、伊集院権三という、さらに深く、暗い泥船へと、乗り換えさせられていたのだ。
一方。
防衛高校より、さらに上位のエリート養成機関である、国立防衛大学。
その一室で、一人の教授が、窓の外を見ながら、ほくそ笑んでいた。
彼の名は、黒木。伊集院権三の長年の支援を受け、この地位に上り詰めた、腹黒い男だ。
(伊集院権三も、落ちたものだ。息子の不始末一つで、こうもあっさりと力を失うとは)
彼のデスクの電話が鳴る。相手は、権三の秘書からだった。
『――黒木先生。先日お話しした件、いかがでしょうか。防衛高校の現校長、霧島レイカは、今回の件で我々伊集院家への反抗姿勢を明確にしました。彼女を、その座から引きずり下ろすための『圧力』を、大学側からかけていただきたい』
「ふむ。承知しました。こちらで、良きように計らいましょう」
黒木は、恭しく返事をする。
だが、電話を切った瞬間、彼の顔には、侮蔑の笑みが浮かんだ。
(……まだ、私を自分の駒だとお思いか。哀れな男よ)
権三は、知らない。黒木が、彼の失墜を好機と捉え、水面下で、反伊集院派の理事たちをまとめ上げ、着々と自身の勢力を伸ばし始めていることを。
(伊集院権三は、もう終わりだ。これからは、私の時代。防衛高校も、いずれは私の影響下に置く)
黒木は、受話器を取り、別の番号へと電話をかけた。相手は、防衛高校の教頭だった。彼もまた、黒木が息を吹きかけている、新たな「駒」の一人だ。
「――私だ。霧島校長の件だが、少し『圧力』をかけてくれたまえ。例えば、そうだな……。夜間クラスに特待生として入学したという、あのアリアとかいう生徒。ああいう、素性の知れん者を安易に入学させた、校長の監督責任を、理事会で追及するとしようか……」
伊集院権三の放った悪意は、彼の手を離れ、新たな悪意となって、一人歩きを始めていた。
それは、やがて、僕や陽菜、そして霧島校長たちを巻き込む、学園内の新たな権力闘争の火種となって、静かに、しかし確実に、燃え広がっていく。
僕たちの知らないところで、盤上の駒は、さらに複雑に、そして厄介に、動き始めていた。




