第39話:事件の余波と、女神の涙
壁外合同演習は、前代未聞の不祥事によって、中止となった。
臨時本部は騒然とし、伊集院翔とその仲間たちは、駆けつけた教官たちによって厳重に拘束された。僕は、腕の中でぐったりとしている陽菜を抱え、臨時本部に設置された医務室のベッドに、そっと横たわらせた。
彼女の顔色は紙のように白く、呼吸も浅い。僕が傍らで静かに座っていると、医務室のドアが勢いよく開いた。
「――失礼するわよ!」
入ってきたのは、白衣を纏った、気の強そうな女性医師だった。その後ろには、数人の看護師が慌ただしく続いている。
「あなたがアリアね。話は聞いているわ。橘陽菜さんの容態は?」
「……意識が朦朧としています。薬物を盛られたようです」
「でしょうね」
女性医師は、手際良く陽菜の瞳孔を確認し、脈を測ると、看護師たちにテキパキと指示を飛ばした。
「初動が肝心よ! すぐに血液と尿を採取! 体内に残っている薬物の成分を特定するわよ! 物的証拠は何よりも雄弁だからね!」
看護師たちがバタバタと準備を始める。
「いい雰囲気のところ、ごめんなさいねぇ」
女性医師は、僕を見てにやりと笑った。その瞳は、全てを見透かすような、鋭い知性を宿している。
「私は、九条アスカ。校長の霧島先生から依頼されて来た、法医学の専門家よ。まあ、こっちが本業でね。伊集院みたいな腐った権力者の嘘を暴くのが、趣味なの」
彼女はそう言うと、手慣れた様子で陽菜の腕から血液を採取していく。
やがて、薬の効果が少しずつ切れ始めたのか、陽菜のまぶたがぴくりと動いた。
「……ん……れん……?」
「陽菜! 気がついたか!」
僕が思わず身を乗り出すと、陽菜はゆっくりと目を開け、僕の姿を認めると、その瞳にみるみる涙が溜まっていく。
「蓮……! よかった……夢じゃ、なかったんだ……」
「ああ。俺だ」
「怖かった……。何が起きたのか、わからなくて……。みんなが、私を、ひどい目で……」
震える声で語る陽菜の言葉を、九条医師は「はいはい、あとは若いお二人でどうぞ」とでも言うように、カルテを書きながら聞き流している。
そのか細い声が、僕の胸を締め付ける。俺が、もっと早く気づいていれば。俺が、そばにいてやれたなら。陽菜は、こんなに怖い思いをしなくて済んだのに。
アリアの身体は涙を流せない。だが、僕の心は、斎藤蓮の魂は、陽菜への申し訳なさと、彼女を傷つけた者への静かな怒りで、確かに泣いていた。
「さて、検体の採取は終わったわ。私はこれで失礼するから、あとはごゆっくり。可愛い子の友情は美しいわ~。心の栄養ねっ!」
九条医師は、看護師たちを連れて部屋を出ていこうとしながら、僕にウィンクを飛ばした。
「アリアさんも、今度会う時は、その怪しいマスクとサングラス、外してよろしくぅ~。その下、とんでもない美少女オーラが出てるの、お見通しなんだから! ごちそう様でした~」
パタン、とドアが閉まり、医務室には再び僕と陽菜の二人だけが残された。
「……うっ、うぅ……」
陽菜は、声を抑えきれずに泣きじゃくりながら、ベッドから起き上がると、僕の胸にその顔をうずめてきた。
「蓮……! よかった、本当に、よかった……!」
「……ああ」
僕にすがりつき、子供のように泣く陽菜。僕は、その背中を、優しく、何度も撫でてやる。
「もう大丈夫だ。もう、誰もお前を傷つけさせない」
僕の言葉は、陽菜への慰めであると同時に、僕自身の魂に刻み込む、固い誓いだった。
僕の言葉に、陽菜は顔を上げ、潤んだ瞳で僕をじっと見つめてきた。その瞳は、僕への絶対的な信頼と、そして……それ以上の、何か熱い感情を物語っているように見えた。
その瞳に見つめられ、僕の心臓が、キュン、と音を立てて締め付けられる。
アリアの身体になってから、ずっと抑えていた感情。斎藤蓮としての、陽菜への想い。それが、堰を切ったように溢れ出してくる。
僕は、気づけば、目の前の華奢な身体を、壊れ物を扱うように、ぎゅーっと、強く抱きしめていた。
「……蓮……?」
驚く陽菜の顔が、僕の胸に埋まる。僕の、微かに膨らんだ胸に。
その事実に気づき、僕の顔がカッと熱くなるが、もう腕を離すことはできなかった。
「~~~ッ!!」
医務室のドアの隙間から、その光景をこっそりと覗いていた九条アスカは、声にならない叫びを上げていた。
どこから持ってきたのか、医務室の枕をぎゅううっと力いっぱい抱きしめ、その目はギンギンに輝いている。
(い、いけませんわ……! これは、見てはいけないものを見てしまった……! なんて尊いのかしら……! 控えめ美少女と、元気いっぱい一途な子の、友情を超えた何か……! ああ、ご飯が何杯でもいける……!)
彼女は、二人の純粋な(そして少しだけ複雑な)やり取りに、最高級のエンターテイメントを見出し、一人でキュンキュンともだえていた。
「……さて。最高の『心の栄養』も補給できたことだし、邪魔者はさっさと帰りますか」
彼女は、満足げに微笑むと、今度こそ本当にその場を後にした。
その頃。
校長室では、霧島校長とギルドマスターが、慧からもたらされた情報の精査を進めていた。
「……このハッキング能力、尋常ではありませんわね。伊集院家のサーバーを、こうも容易く……」
「ああ。噂には聞いていたが、これほどとはな。裏の世界で『電子の魔女』と呼ばれている、正体不明の天才ハッカー。まさか、アリアの味方についていたとはな」
ギルドマスターは、感心とも呆れともつかない声で言った。
「規格外の力を持つアリア、彼女を導く橘陽菜、そして、全てを操る電子の魔女……。面白い駒が揃った。伊集院権三を失脚させるには、十分すぎる」
二人の有力者は、これから始まるであろう、より大きな戦いを見据え、静かにチェスの駒を進め始めていた。
同時刻。
壁外から戻るリムジンの中で、クリスティーナはセバスチャンから事件の全貌を聞かされ、激しい怒りに燃えていた。
「伊集院家……。あなた方は、敵に回してはならない相手を、敵に回しましたわね」
彼女の宣戦布告は、これから伊集院家を襲う、経済という名の、もう一つの嵐の到来を告げていた。




