第34話:電子の海の魔女と、女神への貢ぎ物
陽菜が学校で友人たちと笑い合っていたころ。
僕が家でコーヒーを淹れ、穏やかな時間を過ごしていた、その同じ時。
第七区画、雑居ビルの最上階。
その部屋は、無数のモニターと、うず高く積まれたサーバー、そして空の栄養ドリンクの容器で埋め尽くされていた。薄暗い部屋の中で、煌々と光を放つモニターの光だけが、キーボードを高速で叩く一人の人物の姿を照らし出している。
その人物は、ヘッドセットをつけ、独り言のように呟いていた。
「……ふふっ。伊集院権三の個人サーバー、セキュリティは国家機密レベル。でも、甘い。甘すぎる」
指が、見えないほどの速さでキーボードの上を舞う。モニターには、常人には理解不能なコードの羅列が、滝のように流れ落ちていく。
「バックドアの構成が、5年前の旧式。こんなザルな守りで、よくもまあ、国の重要ポストに居座れるものだ。権力にあぐらをかいた豚は、牙の研ぎ方も忘れるらしい」
くすくす、と楽しそうな笑い声が漏れる。
「――侵入完了。さて、お目当てのファイルは、と……。あったあった。『翔、教育関連ファイル』……。なんとも分かりやすい隠し方だこと」
ファイルを開くと、そこには、防衛高校の生徒の個人情報、教師たちの弱み、そういう物が暗号化されたデータが保存されていた。
「暗号化レベル『キマイラ』。面倒な。……だが、私の前では、ただのテキストファイルに同じ」
数分後。ある部屋のスピーカーから拾われる、伊集院親子の邪悪な会話が、ヘッドセットからクリアに聞こえてきた。スピーカーもマイクになり得るのだ。
『……次の壁外合同演習で、彼女には退場してもらいます』
『橘陽菜を、加害者に仕立て上げるのです』
『役目を終えた駒は、速やかに盤上から消すのが定石だからな』
「……うわぁ。絵に描いたような悪党。吐き気がする」
人物は、ヘッドセットを外すと、大きく伸びをした。
そこに現れたのは、そばかすの残る、あどけない少女の顔だった。そして、横に置いていた、ぐるぐると分厚いレンズのメガネを見やる。そのメガネは、蓮がコンビニで出会った店員がかけていたものだ。
彼女こそ、ハッカーを自称していたコンビニ店員、相良慧。
いや、それは彼女が作った、表向きの偽りの1つの姿。本当の彼女は、電子の海を自在に泳ぐ、天才的なスキルホルダーだった。
彼女が、アリアに興味を持ったのは、二週間前のこと。
ガーゴイルを圧倒的な力で殲滅した、謎の冒険者。その存在に、彼女は強く惹かれた。
そして、いつものように街中の監視カメラの映像を「散歩」していた時、彼女はそのアリアが、一人の少女――橘陽菜と、親密な関係にあることを知った。
「……ふーん。あのアリア様が、心を許す相手……」
興味本位だった。最初は。
だから、アリアの周辺を探り始めた。そして、気づいたのだ。伊集院翔という完璧な優等生が、橘陽菜に対して、異常な執着と敵意を向けていることに。
「……これは、何かある」
彼女のハッカーとしての勘が、警鐘を鳴らした。そして、彼女は伊集院親子の家のセキュリティネットに侵入し、今回の恐るべき計画の全貌を掴んだのだ。
「橘陽菜を陥れて、その罪をなすりつけよう、か。……許せない。許せるはずがない」
慧の瞳に、冷たい怒りの光が宿る。
アリアは、彼女にとって、光だった。この腐った世界に舞い降りた、気高く、強く、美しい救世主。
その神聖な存在、その友人を、こんな下劣な者たちの、くだらない権力争いの道具にされてたまるものか。
彼女は、再びキーボードに指を置いた。
伊集院たちが用意した、偽の目撃者。買収の証拠。被害者役の生徒の個人情報。陽菜に飲ませる薬物の成分データ。壁外演習のナビゲーションシステムの改竄ログ。
全ての「証拠」を、彼女は瞬く間に収集し、バックアップしていく。
「ふふ……。哀れな伊集院翔。あなたは、チェスをしているつもりのようだけれど、盤の上の駒も、ルールも、全て私が書き換えられるということを、知らないのね」
彼女は、集めたデータを、一つの暗号化フォルダにまとめた。フォルダ名は、『女神への貢ぎ物』。
その日の午後。
僕は、陽菜に頼まれたお使いのついでに、いつものコンビニに立ち寄っていた。
『ぴろぱぽぱろーん、ぱぽぺぽぽーん♪』
珍妙な入店音と共に店に入ると、レジカウンターから、コンビニ店員のお兄さんに扮した相良慧が飛び出してきた。
「アリア様! お待ちしておりました!」
「……別に、待たなくていい」
「いえ! アリア様がいつお見えになってもいいように、最高の豆を仕入れてお待ちしておりました!」
彼は、僕の返事も聞かずに、恭しくコーヒー豆の袋を差し出してくる。
その時、彼が袋を渡すほんの一瞬、その指先が不自然に動き、小さな紙片が袋の中に滑り込むのを、僕の視界の端が捉えた。だが、彼のあまりの勢いと熱意に、僕はそれを深く気にする余裕はなかった。
「あ、そうだ! このコーヒー、お代は結構です! 私からの、ささやかなプレゼントです!」
そう言って、彼は僕が持っていたコーヒー豆を奪い取ると、すごい勢いでレジの裏へと消えていった。
(……今、何か入れたか? まあ、いいか)
僕は、一瞬の違和感を覚えながらも、ありがたくそれを受け取り、店を出た。
「アリア様、どうかご武運を……!」
背後から聞こえた、彼の祈るような声。
僕は、明日の演習のことを言っているのだろうと、特に気にも留めなかった。
だが、慧は知っていた。
明日、伊集院の「完璧な計画」が実行に移されること。
そして、その計画が、彼女の指先一つで、音を立てて崩れ去る準備が、すでに整っていることを。
薄暗い部屋の中、慧はアリアの後ろ姿をモニター越しに見送りながら、恍惚とした表情で、くすくすと笑っていた。
(……どうか、メモに気づいてくれますように。そして、私の女神様が、何の憂いもなく、輝かれますように)




