第28話:陽菜先生、動く
僕たちの知らないところで様々な思惑が渦巻いているとは露知らず、アリアとしての初仕事を終えた僕は、しばらくの間、陽菜の家で比較的穏やかな日常を送っていた。
ギルドには顔を出し、簡単な依頼をこなしてはいるものの、基本的には陽菜が学校から帰ってくるのを待ち、一緒に夕食を食べる、という生活だ。
陽菜がいない昼間は、クリスティーナからもらった高級菓子と、相良さんから献上された高級コーヒー豆を嗜み、ソファでゴロゴロしながら旧世界の映画を観る、というのが僕の主な日課となっていた。時折、黒猫が窓の外からじっとこちらを覗いているのに気づくが、特に害はないようなので放置している。
僕は、すっかりこの自堕落な生活に気を抜き、陽菜が学校でクリスティーナからの猛攻に耐えていることなど、想像もしていなかった。
そんな日の夜。
「――蓮くん」
夕食の後、リビングのソファでくつろいでいた僕に、陽菜が仁王立ちで詰め寄ってきた。その手には、僕が「斎藤蓮」だった頃に使っていた、高校の教科書が握られている。
「……なんだよ、陽菜」
「なんだよ、じゃありません! あなた、自分が今どういう立場か、わかってるの!?」
「え? Cランク冒険者……」
「違いますーっ!」
陽菜は、僕の頭を教科書の角でこつん、と叩いた。
「あなたは、学生でしょうが! 16歳の!」
「いや、でも、僕はもう……」
「『でも』じゃないの!」
陽菜は僕の隣に座り、真剣な目で僕を見つめた。
「蓮は、斎藤蓮としての人生を諦めたわけじゃないでしょ? いつか、元の身体に戻る方法が見つかるかもしれない。その時のために、勉強をおろそかにしていいわけがないの!」
彼女の目は、本気だった。まさしく、子供の将来を案じる母親の目だ。
「大体、最近の蓮はだらしない! 冒険者としてお金を稼いだからって、家でゴロゴロして、スイーツばっかり食べて! そんなの、ただのニートと一緒よ!」
「に、ニート……」
手厳しい言葉が、僕の胸に突き刺さる。
「いいこと、蓮? あなたは学生なの。学生の本分は、勉強! わかった!?」
「……はぁ」
僕は、彼女の勢いに気圧され、頷くことしかできない。
その日の夜から、『陽菜先生による、蓮くんのためのお勉強会』が、強制的に開催されることになったのだった。
そして、数日後の放課後。
陽菜は、僕に「今日はちょっと用事があるから、先に帰ってて!」と言い残し、一人である場所へ向かっていた。
冒険者ギルドだ。
「いらっしゃいませ! ……って、あれ? 陽菜ちゃん?」
カウンターにいたセラが、制服姿の陽菜を見て、驚きの声を上げる。
「こんにちは、セラさん。今日、ギルドマスターはいらっしゃいますか?」
「え? あ、はい、いらっしゃいますけど……」
「お話がしたいんです! どうしても!」
陽菜の鬼気迫る表情に、セラは気圧され、慌てて奥へと取り次いだ。
やがて、執務室に通された陽菜は、どっかと椅子に座るギルドマスターに、深々と頭を下げた。
「ギルドマスター! 突然、申し訳ありません! 今日は、アリアさんのことで、ご相談があってまいりました!」
陽菜の口から「アリア」の名前が出たことに、ギルドマスターは少しだけ眉を動かした。
「ほう? アリアの『監視役』である君が、俺に何の用だ?」
「アリアさんを、学校に通わせてあげることはできないでしょうか!?」
陽菜は、単刀直入に切り出した。
「あの子は、まだ若いんです。冒険者として戦うだけでなく、ちゃんと勉強して、普通の学生みたいな生活も送るべきなんです! このままじゃ、あの子は戦うことしか知らない、ただの戦闘人形になってしまいます!」
それは、僕が「アリア」という存在に飲み込まれてしまうのではないか、という陽菜の心からの心配だった。
陽菜の必死の訴えを、ギルドマスターは腕を組んで静かに聞いていた。
「……なるほどな。アリアを学校に、か。君は、本当にあいつのことを大事に思っているんだな」
彼は、ため息を一つつき、そして言った。
「方法は、ある。防衛高校には、働きながら通える『夜間特別クラス』が存在する。もちろん、入学するには、相応の学力試験と、戦闘能力を示す実技試験に合格する必要があるがな」
「本当ですか!?」
「ああ。合格さえすれば、ギルドカードの情報で個人を特定し、入学措置を取ることは可能だ。戸籍がなくても、ギルドが身元を保証する形になる」
道は、あった。
陽菜の顔が、ぱあっと明るくなる。
「ありがとうございます! ギルドマスター!」
「礼を言うのはまだ早い。問題は、アリア本人がどう思っているかだ。それに、君と同じ学校に通うことになるんだぞ? それでもいいのか?」
「はい! 私が、責任をもってアリアさんの面倒を見ます!」
陽菜は、力強く胸を叩いた。その姿に、ギルドマスターは苦笑する。
(……やれやれ。君のような『お母さん』がいて、あいつは幸せ者だな。同時に、この少女の存在こそが、あのアリアという規格外の力を御する『手綱』になるかもしれん)
彼の脳裏には、そんな計算も働いていた。
その日の夜。
家に帰ってきた陽菜は、僕の前に一枚のパンフレットを叩きつけた。それは、防衛高校の『夜間特別クラス』の募集要項だった。
「――というわけで、蓮くん。あなたは、もう一度、防衛高校の入学試験を受けることになりました!」
「……は?」
僕が呆然としていると、陽菜は仁王立ちで高らかに宣言した。
「蓮をニートにはさせません! 目指せ、文武両道! 私が、ビシバシ鍛えてあげるからね!」
僕の意思とは全く関係ないところで、僕の二度目の高校受験は、決定事項となった。
「いや、なんで半年前に受かった高校の試験を、もう一回……」
僕のぼやきは、完全にやる気になっている陽菜先生には、全く届かない。
僕は、目の前で腕を組んで仁王立ちする、スパルタで、最高に優しい家庭教師(兼お母さん)の姿を見つめながら、これから始まるであろう新たな面倒事に、深くため息をつくしかなかった。




