第27話:王子様の不機嫌
「それでね、蓮。今日のクリスティーナ先輩、お弁当にトリュフのオムレツを持ってきたんだよ。一口もらったけど、すっごく美味しかった!」
「ほう。それは、俺のコーヒーに合いそうだな」
「もう、蓮は食いしん坊なんだから!」
陽菜の家での夕食。それは、僕にとって一日で最も心安らぐ時間だった。学校での出来事を、楽しそうに話してくれる陽菜。その話を聞きながら、僕が淹れたコーヒーを飲む。ささやかだが、何物にも代えがたい、僕たちの平穏な日常。
だが、僕たちの知らないところで、その平穏を脅かす新たな火種が、静かに燻り始めていた。
同時刻。防衛高校、生徒会室。
夕暮れのオレンジ色の光が差し込むその部屋で、一人の少年が、静かに書類に目を通していた。
彼の名前は、伊集院翔。
1年生ながら、その卓越した成績とリーダーシップで、生徒総代を務めるエリート中のエリート。教師からの信頼も厚く、その優雅な物腰と、誰にでも分け隔てなく接する完璧なスマイルは、多くの女子生徒を虜にしていた。
だが、それは彼の持つ、数ある「仮面」の一つに過ぎない。
「――翔様。本日の報告書です」
側近である西園寺遼が、数枚の書類を彼のデスクに置いた。
伊集院は、書類に目を走らせ、その中の一文で、ぴくりと眉を動かした。
「……ほう。橘陽菜が、クリスティーナ・エルロードのお茶会に? しかも、あの『アリア』とかいう新人と一緒に、名指しで招待された、と」
「は。そのようです。クリスティーナ嬢が、護衛任務の礼として、直々に招待状を出されたとか。最近では、昼休みを共に過ごすほどのご懇意ぶりだと」
「……そうか。橘さんは、クリスティーナ先輩と、ご懇意になられるわけだ」
伊集院は、完璧な笑みを浮かべたまま、静かに言った。
「まったく……。この1年生の総代である俺を差し置いて、何の挨拶もなく、あんな金とコネだけの女に易々と取り入られるとは。度し難いな…」
その声は穏やかだが、完璧な笑みの裏側で、彼の額に青筋がぴきりと浮かぶのを、西園寺は見逃さなかった。
「翔様。窓の外に、女子生徒の姿が見えますよ。お顔が、少々崩れております」
西園寺が、冷静に指摘する。
「おっと。あはは、いけない、いけない。少し、感情的になってしまったかな」
伊集院は、一瞬で普段の完璧な「王子様」の仮面を被り直した。
「仕方ないな。せっかく、目障りだった斎藤蓮などに退場いただいたというのに。これだから、人の真の価値を理解できない連中というのは、度し難い」
彼の呟きは、誰にも聞こえないほど小さかったが、そこには死んだはずの僕――斎藤蓮への明らかな侮蔑と、そして今、自分の上を行こうとしている陽菜への苛立ちが込められていた。
ちょうどその時、生徒会室の前を、数人の女子生徒が通りかかった。
「あ、伊集院様! お疲れ様です! お先に失礼しまーす!」
「ああ。君たちも、お疲れ様。気をつけて帰るんだよ」
伊集院は、窓を開け、完璧な笑顔で彼女たちに手を振った。
遠ざかっていく女子生徒たちが、「きゃー、伊集院様に声をかけられちゃった……!」「素敵……!」と黄色い声を上げているのが聞こえる。
「……ふふん♪」
伊集院は、満足げに鼻を鳴らした。
「これこそが、正常な評価というものだ。それに比べて、橘陽菜は……どうやら、まだ自分の立場というものが、よく分かっていないようだ」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がる夕焼けの空を見つめた。
「彼女にも、きちんと『教育』してあげなければ、いけませんねぇ。この学園で、誰に傅くべきなのかを」
その言葉は、甘く、そしてどこまでも冷たかった。
今はまだ、彼は動かない。だが、彼の内側では、自分の意のままにならない少女たちへの、歪んだ支配欲が、静かに、そして確実に、その熱量を増している。
「まずは、クリスティーナの、お茶会が終わるのを待つとしよう。その後で、少しばかり遊んでさしあげるか」
彼が描く「教育」という名の、陰湿なシナリオ。
その幕が上がるまで、残された時間は、もういくばくもなかった。




