第20話:根回しと、眠れない夜
その夜。
僕が部屋でくつろいでいると、陽菜が神妙な顔で入ってきた。
「……蓮」
「どうしたんだ、そんな顔して」
「明日のお茶会、私も行くことになったから」
「……は?」
僕の口から、素っ頓狂な声が漏れる。
陽菜は、僕の隣にどかりと座ると、大きなため息をついた。
「はぁ……。もう、心配で心配で、いてもたってもいられなかったんだから!」
彼女は、今日の昼休みに学校で聞いた噂について話してくれた。
「クリスティーナ先輩、学校の友達もたくさんお茶会に呼んでるらしいわよ。防衛高校の生徒ばっかりの集まりで、蓮が一人で乗り切れるわけないでしょ!?」
「いや、別に乗り切るとかじゃなくて、お茶を飲むだけだと……」
「だーめ! あの人、絶対蓮のこと気に入ってるもん! 根掘り葉掘り、色々聞かれて、万が一にでもボロが出たらどうするの! 私が隣で、しっかりガードしてないと!」
陽菜は、まるで外敵から雛鳥を守ろうとする親鳥のように、必死な形相でまくし立てる。
学校関係者、特に有力者のクリスティーナは、蓮の正体を隠す上で最も避けるべき鬼門だ。陽菜が、嬉々として参加を決めるはずがなかった。これは、心配のあまり取った、彼女なりの苦肉の策なのだ。
「……お前、本当にすごいな」
僕は、自分のためにここまで行動してくれる幼馴染に、感心と、少しの申し訳なさを感じていた。
「すごいとかじゃなくて! 当たり前でしょ! 蓮のことは、私が守るって決めてるんだから!」
彼女はぷん、と頬を膨らませる。その姿は、口うるさくて、過保護で、でも誰よりも僕のことを考えてくれる、まさにお母さんのようだった。
「……わかったよ。ありがとう、陽菜」
僕がそう言うと、陽菜は「ふんっ」とそっぽを向きながらも、その口元は少しだけ緩んでいた。
陽菜がお茶会への参加権を勝ち取ってきた、その日の夕方。
僕は、陽菜が「絶対安静!」と言って聞かないのをなんとか説得し、一人でギルドへと駆け込んでいた。陽菜の独断先行を、ギルドマスターに報告しておく必要があったからだ。
執務室で僕の報告を聞いたギルドマスターは、眉間に深い皺を刻んだ。
「……知人、だと? アリア、お前は天涯孤独だと聞いていたが」
「……事情が変わった」
「その知人とやらは、信用できるのか? お前の正体を知っているのか?」
鋭い追求。僕は黙って頷く。
「……ああ。僕が、唯一信用できる人間だ」
僕の言葉に嘘がないことを見て取ったのか、ギルドマスターは大きなため息をついた。
「はぁ……。まあ、いいだろう。エルロード嬢も許可したのなら、俺がとやかく言うことではない。だが、くれぐれも面倒事は起こすなよ。お前だけでなく、その知人とやらの身も危うくなる」
「わかっている」
「それから、ギルドの公式記録として、その知人――橘陽菜を、お前の『監視兼サポート役』として登録しておく。何かあった時のためだ。異論はないな?」
ギルドマスターの素早い判断に、僕は「えっ?」と声を上げそうになったが、ぐっとこらえた。もう、こだわってはいられない。陽菜の安全が確保されるなら、その方がいい。
「……感謝する」
僕が頭を下げると、ギルドマスターは「貸しは高くつくぞ」とニヤリと笑った。
彼なりに、僕と陽菜の関係性を慮り、ギルドとして守るための体裁を整えてくれたのだろう。
僕は受付のセラに陽菜の学生証のデータを渡し、正式な手続きを済ませてから、ギルドを後にした。セラが「まあ! アリア様と橘様は、そういうご関係だったのですね! 尊いです……!」と瞳を輝かせていたのは、見なかったことにした。
その夜。
陽菜は、昼間の学校での直談判と、僕の心配とで、心身ともに疲れ果てていたらしい。
夕食を終え、お風呂から上がると、ソファに座ったまま、こくりこくりと船を漕ぎ始めた。
「……ひな? 風邪ひくぞ。ベッドで寝ろ」
「ん……。だいじょうぶ……。れんが、ちゃんとねるのを、みとどけてから……」
呂律が回っていない。そう言っている間にも、彼女の身体はソファに沈み込み、やがて静かな寝息を立て始めた。
「……疲れてるんだな」
僕は、その無防備な寝顔に苦笑し、仕方なく、彼女の身体を抱き上げた。
(……軽い)
アリアの身体は、僕の知っている斎藤蓮の身体より、ずっと力が強い。陽菜を抱き上げるのは、造作もなかった。
そっと、寝室へと運び、彼女をベッドにゆっくりと下ろす。布団をかけ、部屋の明かりを消して、リビングに戻ろうとした。
そして――リビングのドアの前で、ピシリ、と固まった。
寝室では、陽菜がベッドで眠っている。
リビングには、ソファと、床。
そして、僕は、これから寝なければならない。
(……お、俺は、これから、どうすればいいんだ……?)
陽菜が眠るベッドに、僕が後から入っていく?
それは、これまでとは全く質の違う問題だった。
まるで、夜中にこっそり、女の子の部屋に忍び込むような、背徳的なシチュエーションではないか。
(いやいやいや! 無理無理無理無理! 絶対に無理だ!)
心の中で、僕は激しく頭を振る。
だが、かといって、僕がソファや床で寝ているのを、朝、陽菜が見つけたらどうなる?
間違いなく、彼女は怒るだろう。「なんで起こしてくれなかったの!」と。そして、自分がベッドを独占してしまったことに、罪悪感を抱くかもしれない。
それは、避けたい。
僕の脳裏で、天使と悪魔が囁き合う。
『ベッドで寝るべきだ。陽菜を起こさず、静かに隣で眠るのが、一番の優しさだ』
『ソファで寝ろ! それが男としての、いや、人としての最低限の矜持だ!』
数分間の激しい葛藤の末、僕は静かにリビングのクローゼットを開けた。
そして、予備のクッションとブランケットを取り出し、ソファに、自分の寝床を作った。
僕は、ベッドで眠る陽菜の穏やかな寝息を聞きながら、ソファで、ゆっくりと目を閉じた。
翌朝。
「――れーーーーんっ!!」
耳をつんざくような絶叫で、僕は目を覚ました。
目の前には、仁王立ちで僕を見下ろす、般若のような顔の陽菜がいた。
「なんで、蓮がソファで寝てるのよっ!?」
「え、いや、それは……」
「私がベッドで寝ちゃったからって、気を遣う必要ないのに! 起こしてくれればよかったじゃない! もう!」
彼女は、僕が気を遣ったことに対して、本気で怒っているらしかった。
その純粋な怒りが、昨夜の僕のちっぽけな葛藤を、なんだかとても恥ずかしいものに感じさせた。
「ご、ごめん……」
僕が謝ると、陽菜は「ふんっ!」とそっぽを向きながらも、「ほら、早く朝ごはん食べるよ! 遅刻する!」と僕の手を引いてくれた。
その手は、とても温かかった。
こうして、僕と陽菜の、お茶会当日の朝は、ドタバタと幕を開けたのだった。




