第2話:銀髪金眼のアリア
意識が浮上する。
最初に感じたのは、コンクリートの無機質な冷たさと、微かな血の匂い。
「……ここは……?」
喉から漏れた声は、自分のものとは思えないほど高く、澄んでいた。まるで鈴を転がすような、少女の声だ。
何が起きた? 混乱する頭で身体を起こすと、視界の端を滑り落ちる銀糸のような髪に息を呑んだ。おそるおそる自分の手を見る。そこにあるのは、白魚のようにしなやかで、けれど節々が硬く鍛えられている、見慣れない少女の手だった。
「……夢、か?」
だが、頬をつねると、はっきりとした痛みが走る。身体の感覚も、あまりに生々しい。
状況を把握しようと、ゆっくりと立ち上がる。そこは薄暗い地下駐車場のようだった。いくつか車が放置されているが、人影はない。幸い、怪異の気配もしなかった。ひとまずは安全な場所らしい。
近くの水たまりに、恐る恐る顔を近づける。
水面に映っていたのは、まさしく見ず知らずの美少女だった。月光を溶かしたような銀の髪、そして獲物を狩る猛禽類を思わせる、鋭い光を宿した金色の瞳。
「嘘だろ……なんだよ、これ……」
その呟きと同時に、頭蓋の内側で何かが弾けた。
激痛と共に、膨大な情報が濁流のように流れ込んでくる。
――アリア。戦闘学院首席。遺伝子調整体。対怪異戦闘術、魔力操作、身体強化、戦術理論――。
感情のない、ただの知識の羅列。まるで辞書を丸ごと叩き込まれたようだ。
「転送トラップ……」
そうだ。僕は、壁外授業中にスタンピードに巻き込まれ、陽菜を庇ってオーガに追われ、路地裏で――。
あの紫の光。あれが原因か。
どうやら僕は、あのトラップに巻き込まれ、異世界の少女――アリアとやらと融合してしまったらしい。僕の意識を核として、彼女の身体と知識だけが混ざり合った、歪な状態で。
「……陽菜……」
最後に見た、泣き叫ぶ彼女の顔が脳裏に蘇る。無事だろうか。きっと、僕は死んだと思っているだろう。すぐにでも駆けつけて無事を伝えたい。
だが、この姿で?
「斎藤蓮だ」と言って、誰が信じる? 下手をすれば、人間に化けた新種の怪異だと思われて、問答無用で攻撃されるのがオチだ。
混乱する頭を必死に働かせる。
まずは、この状況を整理しよう。
僕は、斎藤蓮の意識を持ったまま、アリアという戦闘の専門家の身体を手に入れた。頭の中には、彼女が培ってきたであろう戦闘技術や知識がデータベースのように格納されている。
試しに、その場で軽く跳躍してみる。
「うわっ!?」
思わず声が出た。ほんの少し力を込めただけなのに、身体が天井に届きそうなほど高く浮き上がったのだ。着地の衝撃も、まるで猫のようにしなやかに吸収してしまう。信じられない身体能力。これが、遺伝子改良された戦闘民族の身体……!
冷静になれ、斎藤蓮。
この力は、今の世界で生き抜くための武器になる。だが同時に、諸刃の剣だ。
この異質な容姿と、規格外の身体能力は、絶対に隠し通さなければならない。
幸い、アリアが背負っていたらしいバックパックが傍らに転がっていた。中身を漁ると、実用的なサバイバルキットと共に、サイズの大きな黒いパーカーとカーゴパンツが出てきた。好都合だ。
手早く着替え、フードを深く被る。予備で入っていた布製のフェイスマスクで鼻と口を覆えば、銀髪も金色の瞳も、その異質な顔立ちも闇に隠すことができた。ダボダボの服のおかげで、少女らしい身体のラインもわからない。これなら、ただの小柄な冒険者にしか見えないだろう。
準備を終え、薄暗い地下駐車場から地上へ続く階段を駆け上がった。
外に出ると、空は赤黒い夕焼けに染まっていた。
聳え立つ巨大な防護壁。その上には、空を睨むように巨大な弩砲――『弩級バリスタ』がいくつも設置されている。人々は皆、俯き加減に足早に通り過ぎていく。誰もが疲弊し、何かに怯えている。これが、怪異が蔓延る世界の日常。
まずは情報を集めたい。できれば、あの日のスタンピードの被害状況も。冒険者ギルドに行けば、何か分かるかもしれない。
そう決めて歩き出そうとした、その時だった。
街の至る所から、けたたましい警報が鳴り響いた。
『緊急警報! 第七区画上空に、飛行型怪異、複数侵入! タイプ、ガーゴイル! 付近の市民は直ちにシェルターへ避難してください!』
アナウンスを遮るように、甲高い咆哮が空気を引き裂いた。
人々の悲鳴が上がる。見上げると、翼を持つ石像のような魔物が、建物の屋上から次々と舞い降りてくるところだった。その鉤爪がアスファルトを抉り、火花が散る。
自衛隊員がライフルで応戦するが、硬い皮膚に弾丸が弾かれ、まるで効果がない。一瞬の隙を突かれ、一人が無残に引き裂かれた。
地獄だ。
逃げ惑う人波に逆らうように、僕は足を止めた。
見て見ぬふりをして、この場を去るべきだ。目立てば、自分の身が危うくなる。頭ではわかっている。
なのに、足が動かなかった。
一匹のガーゴイルが、逃げ遅れて泣きじゃくる幼い子供に狙いを定めた。翼を広げ、滑空して襲い掛かる。
――まずい!
そう思った瞬間、身体が思考よりも先に動いていた。頭の中の「アリアの知識」が、最短の踏み込み、最適な身体の動かし方を瞬時に弾き出し、身体がそれに完璧に応える。
地面を蹴る。
景色が凄まじい速度で後ろへ飛んでいく。コンクリートの壁を蹴って跳躍。空中で身体を捻り、子供とガーゴイルの間に割り込む。
「――グルァァアアッ!」
眼前に迫る、岩をも砕くであろう鉤爪。
フードの下で、僕は静かに息を吐いた。
恐怖はある。だがそれ以上に、この身体の奥底から湧き上がる、絶対的な自信のようなものが、心を支配していた。
戦える。いや、勝てる。
「……これなら、みんなを守れるかも」
呟きと共に、僕はバックパックからサバイバルナイフを抜き放った。




