第132話:銀の閃光、鋼の刃
アリーナの中央。
数千の観衆が放つ熱狂は、嘘のように掻き消えていた。まるで真空のドームに閉じ込められたかのように、世界から音が失われる。肌を刺す視線の奔流の中、僕と黒鉄リュウジは静かに対峙していた。
息を呑む音すら許されぬ静寂が、大将戦の開始を告げた。
先に動いたのは僕だった。
――ゴッ!
身体強化を最大まで引き上げ、足元の石畳に亀裂を走らせる。
呼吸を止め、意識を研ぎ澄まし、僕は自らを一筋の銀色の閃光へと変えた。この一撃に全てを賭ける。狙いはただ一点、彼の喉元。残された勝ち筋は、この神速に賭けた短期決戦のみ。
だが、リュウジは動かない。
音速に迫る僕の突きを、彼はただ静かに、凪いだ湖面のような瞳で見据えている。まるで悠久の時を生きる岩のように。その鋼の瞳は、僕が描く銀の軌跡、その終着点までをも、とうに見切っていた。
――キィィィィィンッ!!!
ミスリルナイフの切っ先が彼の喉笛の薄皮一枚に触れる、その剎那。
リュウジの腰にあった漆黒の刀が、空間そのものを断ち切るように鞘走った。空気が甲高く悲鳴を上げる。最小限の動きから放たれた居合の一閃。僕の全力全霊の神速を、彼は一歩も動かず、その場に立ったまま完璧に受け止めてみせたのだ。
「……っ!」
腕に叩きつけられたのは、鉄塊で殴られたかのような衝撃。骨が軋み、内臓まで揺さぶられる。渾身の一撃は、まるでさざ波を払うかのように、いとも容易くいなされていた。
リュウジの口元に、初めて獣のような獰猛な笑みが浮かぶ。それは強者だけが浮かべることを許された、絶対的な愉悦の色だった。
「……なるほど。速さだけは本物らしいな。だが――その一撃は、羽毛のように軽い」
――ガンッ!
次の瞬間、凄まじい力に弾き飛ばされ、僕の身体は木の葉のように宙を舞った。リュウジが僕のナイフを、ただ力任せに弾き返したのだ。空中で身を捻り、どうにか体勢を立て直して数メートル後方に着地する。
たった一合。
それだけで骨の髄まで理解させられた。目の前の男は、僕が今まで戦ってきたどの敵とも、生きている次元が違う。
そこからは、まさしく嵐だった。
アリアの超人的な身体能力を限界まで絞り出し、アリーナを縦横無尽に駆け巡る。壁を蹴り、天井から舞い降り、残像を残しながらありとあらゆる角度から銀の刃を叩き込む。火花が散り、甲高い金属音が聖堂の鐘のように鳴り響く。
だが、リュウジは崩れない。
彼は決して僕を追わず、その場から数歩も動かない。僕の繰り出す全ての攻撃を、たった一本の刀だけで、まるで未来が見えているかのように完璧に捌ききっていく。その姿は、荒れ狂う嵐の中心で静かに佇む、鋼鉄の巨岩そのものだった。
「……はぁっ…はぁっ……っ!」
肺が焼け付くように痛い。身体強化スキルの乱用が、僕の生命そのものを燃料に燃え盛っていくのがわかった。
心臓が破裂しそうなほど警鐘を鳴らす。
(……まずい)
リュウジの目が、獲物の弱点を見つけた獣のように細められた。彼は気づいている。僕の最大の弱点――致命的なまでの持久力のなさに。攻めず、ただ受け流し、僕という蝋燭の火が燃え尽きて消えるのを待っているのだ。
「……どうした。もう終わりか?」
氷のように冷たい声が、僕の砕けかけた心をさらに抉る。
視界が赤と黒に明滅し始めた。汗で濡れたナイフの柄が滑る。足が、まるで泥に囚われたかのように重い。遠く、観覧席から陽菜たちの悲鳴のような声が聞こえた気がした。
それでも、奥歯を砕くほどに食いしばり、最後の一滴を振り絞ってもう一度地面を蹴る。
だが、その動きは死にゆく者の最後の足掻き。明らかに鈍っていた。
ほんのわずかな、しかし致命的な隙。
鬼神がそれを見逃すはずもなかった。
「――終わりだ」
初めてリュウジの身体が大きく動いた。
静から動へ。空気が震え、彼の身体が沈む。踏み込みと同時に放たれた漆黒の刃が、僕のがら空きになった胴を目がけて地を薙いだ。
空気が悲鳴を上げた。
もう、避けられない。
脳裏に純白の光が広がる。第七区画の英雄の、あまりにもあっけない敗北。
その絶望の瞬間が、スローモーションのように僕の世界を塗り潰そうとしていた。




