第128話:盤上の駒と、女王の憂鬱
誰かがグラスを置く、乾いた音だけが響いた。
歓迎パーティーは、凍てついた空気の中、幕を閉じた。黒鉄リュウジが残した冷たい言葉の刃は、僕たちの心に氷の楔を打ち込んでいったようだ。
帰り道、陽菜は一言も口を利かなかった。
街灯の光が、その横顔を白く照らし出す。固く結ばれた唇、握りしめられた拳が、飲み込んだ言葉の熱と悔しさを物語っていた。声をかけようとして、けれどどんな言葉も陳腐に思えて、僕は結局、無力なまま彼女の隣を歩くしかなかった。
アパートに陽菜とリリリィを送り届ける。扉が閉まる直前に見えた陽菜の瞳は、まだ燃えるような光を宿していた。
その足で踵を返そうとした僕を、クリスティーナが引き止めた。
「……少し、お話が、おありなのでしょう?」
有無を言わさぬ響きに、僕は無言で彼女のリムジンに乗り込む。
滑るように走り出した車内は、外界の喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。
分厚い防弾ガラスの向こうで、ネオンの光が滲んでは流れ去っていく。ひんやりとした革張りのシートに深く身を沈めると、重たい沈黙が肩にのしかかるようだった。
やがて、クリスティーナが夜景に映る自分の顔を見つめながら、深い溜め息と共に口を開いた。
「……腹立たしい男ですわね、黒鉄リュウジ」
その声には、いつもの気高さとは違う、疲労の色が濃く滲んでいる。
「ですが、彼の言うことにも一理あるのが、また腹立たしい」
「どういうことだ?」
僕が問うと、彼女はゆっくりとこちらに向き直った。その青い瞳が、車内に差し込む光を吸い込んで、僕をまっすぐに射抜く。
「蓮様。……彼らが本当に、ただの『友好親善』のためにここへ来たと?」
「……いや」
「ええ。これは探り合いですわ。……いいえ、もっと生々しい、生存競争とでも言うべきかしら」
彼女は静かに、この世界の残酷な真実を紡ぎ始める。
「伊集院権三の失墜は、この国の力の均衡を大きく崩しました。西都フクオカは今、空白になった『椅子』を虎視眈々と狙っている。伊集院家という重石を失った第七区画がどれほど弱体化したのか……それを探りに来たのですわ」
そして、もう一つ。
クリスティーナの瞳が、狩人のように鋭く光った。
「彼らの最大の目的は、あなたですわ、アリア様」
「俺……?」
「噂の英雄。規格外の力を持つ銀髪の少女。……そして、その背後にある第七区画が隠しているであろう未知の技術や情報。彼らはそれを、根こそぎ奪い取るために来たのかもしれませんわね」
政治、駆け引き、生存を懸けた拠点間の冷たい戦争。
僕たちがこれまで戦ってきた怪異や個人の悪意とは、全く違う。もっと大きく、複雑で、そして救いのない戦場。
「……俺は、駒か」
自嘲の呟きが、唇からこぼれた。
するとクリスティーナは、悲しげに首を横に振る。
「いいえ。あなたは、駒などではありませんわ」
彼女は僕の手を取り、そっと両手で包み込んだ。少しだけ冷たい、華奢な指先。
「あなたは、このゲーム盤そのものをひっくり返せる、唯一の……『切り札』ですわ」
あまりにも重い言葉に、僕は息を呑んだ。
望むと望まざるとにかかわらず、僕はすでに巨大なゲームの中心に立たされている。
「……明日、合同の交流演習が開かれます」
クリスティーナが静かに告げた。
「親睦を深める、という名目でね。……笑わせてくれますわ」
それは、もはや演習ではない。
第七区画と西都フクオカ。二つの拠点のプライドと未来を懸けた、代理戦争。
その火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。
僕の胸の奥で、戦いを前にした静かな緊張が、再び脈打ち始めていた。




