第125話:観測された不協和音
クッキーの甘い香りがまだ記憶に新しい、数日後の夜。
僕たちの家のリビングは、時計の秒針だけが響く、重苦しい静寂に満ちていた。
陽菜とクリスティーナは学校の課題で今夜は戻らない。
ソファに深く沈む僕と、その隣に座るリリィ。そしてキャットタワーの最上段、柔らかな光を放つ、ちびケイちゃんのホログラムだけが、そこにいた。
「――アリア。そして、そこの魔女」
沈黙を破ったのは、リリィだった。
ソファの上で背筋を伸ばし、その金色の瞳が僕とちびケイちゃんを射抜く。いつもの猫のような気まぐれさは影を潜め、賢者としての深い叡智と、見過ごせない憂いの色が宿っていた。
「……お前たちに、話しておかねばならんことがある」
リリィはゆっくりと、言葉を紡ぎ始める。その一つ一つが、空気に重みを加えていくようだ。
「ここ数ヶ月、この星の『律動』が乱れ始めている。……私が感じるのは、微弱だが確実に大きくなっている、空間の『歪み』だ」
「……影の、歪みか」
僕の乾いた唇から漏れた呟きに、リリリィはこくりと頷く。
「そうだ。それは、私の故郷を滅ぼした『蝕むモノ』が、この世界に干渉を始めた何よりの証拠。……このままでは、いずれ、この世界も……」
リリィの衝撃的な言葉に、僕は息を呑んだ。心臓が冷たく締め付けられる。
黙って聞いていたちびケイちゃんの小さな身体から、青白いデータウィンドウが滝のように溢れ出した。無数の文字列がリビングの闇に浮かび上がる。
『――リリィ様の警告を受け、全世界の空間位相センサーのデータを再スキャンしました』
エレクトラの冷静な声が、僕の鼓膜を直接揺さぶる。
『結果、通常ではありえない微弱、かつ周期的な空間の『揺らぎ』を、世界各地で数十箇所確認。……リリィ様の警告は、観測事実として正しいと判断します』
背筋を冷たい汗が伝った。
伊集院権三のような個人の悪意とは次元が違う。世界そのものの存亡を揺るがす、巨大な脅威。
『――この情報は直ちにギルドマスター及び霧島校長へ、最高機密として報告します』
エレクトラの言葉を最後に、再び重い沈黙が僕たちを包んだ。ようやく手に入れた穏やかな日常が、ガラスのように音を立てて崩れ去っていく予感がした。
そして、その報告が大人たちにもたらされてから、数日後。
ギルドマスターの執務室。
ギルドマスターと、ホログラムの霧島校長は、机上に展開された衝撃的なデータを前に、深く眉間に皺を刻んでいた。
「……『影の歪み』、か。にわかには信じがたい話だが……」
「ええ。ですが、観測データは嘘をつきませんわ。それに、リリィという異世界からの来訪者の証言もある」
「一体、どうしたものか……」
二人が対策を協議しようとした、まさにその時だった。
コンコン、と控えめなノックが響いた。
入ってきたのは、受付嬢のセラだった。普段の快活な笑顔はなく、その顔には緊張の色が張り付いている。
「マスター。……国内第二の生存拠点、『西都フクオカ』より公式な使節団の来訪要請が」
「なんだと!?」
ギルドマスターが椅子から身を乗り出した。
セラが差し出した通信記録の硬質な光が、室内の空気をさらに冷やす。
そこには『技術交流、及び、対怪異共同戦線の協議のため』という、もっともらしい名目が記されていた。
だが、そのタイミングはあまりにも良すぎた。
僕たちが、世界の危機を初めて認識した、まさにこの時に。
「……偶然、かしらね」
霧島校長が眼鏡の奥で、その瞳をすっと細めた。
「偶然にしては、出来すぎている。……奴らは、何かを知っているのかもしれんな」
ギルドマスターも、険しい顔で静かに頷く。
外からの接触。
それは希望か、あるいは新たな混乱の始まりか。
僕たちの知らないところで、物語の歯車はより大きく、より複雑に絡み合いながら回り始めていた。
西からの使者が、この第七区画の土を踏むまで、あと、わずか。
新たな嵐の足音が、すぐそこまで迫っていた。




