第124話:英雄たちの、穏やかな午後
伊集院権三が築いた鋼鉄の海上プラントが、錆びた残骸となって海に沈んでから数ヶ月。
あの嵐のような日々が遠い昔に思えるほど、僕たちの日常には穏やかな時間が流れていた。
週末の午後。
小さなアパートのリビングは、バターが焦げる甘い香りと、少女たちの弾むような笑い声で満ちている。
「陽菜! ちょっと、生地が緩すぎないかしら!」
「大丈夫だって! このくらいの方がふわふわに焼けるんだから!」
キッチンでは、陽菜とクリスティーナが揃いのエプロンをつけ、クッキー生地をこねていた。クリスティーナの危なっかしかった手つきも、今ではずいぶんと様になっている。
その横では、リリィがテーブルにちょこんと座り、二人の作業を厳しい監督官のような目つきで見守っていた。
(……ふむ。混ぜ方がまだ甘いにゃ)
時折、陽菜の指についた生地を素早くぺろりと盗み食いしては「こら!」と軽く頭を叩かれているが、全く懲りる様子はない。
そして、僕はといえば。
「……蓮、口、開けて」
ソファの上で、陽菜に有無を言わさず「あーん」をされているところだった。
「……ん」
観念して口を開けると、焼きたての、まだ熱を帯びたクッキーが放り込まれる。サクサクとした歯触りと、優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「……うまい」
「でしょ!」
陽菜が花咲くように笑う。
その、あまりにも平和で幸せな光景。
この日常を、僕は守り抜いたのだ。改めて、その実感が胸に込み上げてくる。
──だが、僕たちが知らないところで。
僕たちの名前は、もはやこの第七区画という小さな箱庭に収まるものではなくなっていた。
同時刻、冒険者ギルド。
カウンターの奥で、セラが山と積まれた通信記録を前に頭を抱えていた。
「もーっ! また『西都フクオカ』から!? 『アリア様の詳細な戦闘データを共有せよ』って、そんな簡単に言わないでくださいよぉ!」
ぷんすかと頬を膨らませながらも、彼女の指先は高速でキーボードの上を舞っている。
『バベル・アーク』でのグリフォン撃退。
伊集院権三の私設軍隊の壊滅。
アリアと、彼女を支える『チーム・アリア』の武勇伝は、数少ない生きている衛星通信網を通じて、瞬く間に国内の生存拠点へと伝播していた。
『関西ブロック』からは共同訓練の申し入れ。『北海道連合』からは技術提携の打診。そして西の最大拠点『西都フクオカ』からは、執拗なまでの情報提供要請。
第七区画に現れた謎多き銀髪の英雄は、閉塞した世界に投じられた大きな波紋となっていたのだ。
「セラさん、大変そうだねぇ」
休憩中のブルックが、コーヒーを片手に声をかける。
「大変ですよぉ! これもそれも全部、うちのアリアちゃんが魅力的すぎるのがいけないんですから!」
セラはそうぼやきながら、机の隅に飾った写真に目をやった。こっそり撮影したアリアの写真(ファンクラブ会報用)に、にへら、と顔が緩む。
ギルドが外の世界との折衝に追われていることなど、僕はまだ知らない。
ただ、リビングのソファで陽菜が淹れてくれた紅茶をすすり、膝の上で丸くなるリリィの温かい背中を撫でていた。
穏やかな、午後。
だが、この平穏が新たな嵐を呼び寄せていることを、僕たちの誰もがまだ予感すらしていなかった。
物語の舞台は、もはやこの小さな街だけには収まりきらない。
その最初の来訪者が、僕たちの家の扉をノックするまで、あと、もう少し。




