第123話:絆の光は、闇を裂いて
「グルオオオオオオオオッ!!」
獣の咆哮が、動力炉の重低音と共鳴し、空気を叩き潰すような衝撃波となって迸った。鋼鉄の壁がびりびりと震え、床に散らばる金属片がカタカタと踊る。
怪人・権三。
その濁った瞳から、かつて宿していたはずの人間としての知性は完全に消え失せている。ぎらつく眼球に映るのは、ただ純粋な破壊への渇望。振り回された巨大な腕が、僕の背丈ほどもある分厚い鉄骨を、熱した飴のようにぐにゃりとへし折った。
「――散開!」
喉を引き裂くような僕の絶叫が、張り詰めた空気の中の号砲となった。
その一言に全ての意志を乗せる。三つの影が、まるで一つの生き物のように三方向へと同時に迸った。
「陽菜、足を!」
「うん!」
陽菜が床を滑るように駆け、その華奢な指先から放たれた幾条もの光の鎖が、生き物のように権三の足元に絡みついた。黄金色の鎖が巨体を縛り上げ、その動きがほんの一瞬、だが決定的に鈍る。
「小賢しい!」
権三が足元の光を振り払おうと体勢を崩した、その刹那の隙。
「――そこだ!」
部屋の隅、闇が最も濃い場所から、リリィが黒い弾丸となって撃ち出された。
狙うは硬質化した皮膚の、関節部分。その僅かな隙間を、深紅に濡れた爪が正確に、そして獣じみた残酷さで切り裂いていく。
ザシュッ! ザシュッ!
肉を裂く鈍い音と火花が散り、装甲と化した皮膚が紙のように剥がれ落ちた。異臭を放つ体液が宙に舞う。
仲間が命懸けで作り出した、完璧な好機。
僕は頭上のパイプへと跳び乗り、軋む金属の上を駆け抜ける。権三の頭上、その無防備に晒された背中へと身を躍らせた。落下速度という名の槌を乗せたミスリルナイフを、奴の肉体の中心に――深々と突き立てた。
「ぐ……おおおおおっ!?」
権三の巨体がくの字に折れ、苦悶の叫びが咆哮へと変わる。僕の手には、骨を砕く硬い感触と、肉を貫く生々しい手応えが残っていた。
完璧な連携だった。僕たちが持ちうる最強の布陣だ。
僕たちは、確かにこの怪物を追い詰めた――そう、信じていた。
だが、権三は伊集院家の全てを賭けてこの歪んだ力を手に入れたのだ。
その怨念にも似た執念は、僕たちの甘い幻想を、嘲笑うかのように打ち砕いた。
「……まだだ……! まだ、終わらんぞぉっ!」
背中にナイフが突き刺さったまま、権三の身体から青白いエネルギーが奔流となって溢れ出す。動力炉から直接吸い上げた魔力が、傷口から泡立つように肉を沸き立たせ、骨が軋む音を立ててその肉体を禍々しく変貌させていく。
「まずい! 再生能力まで……!」
リリィの冷静な声音に、初めて焦りの色が滲んだ。
ドゴォンッ!
権三が、ただ床を殴りつける。
それだけで凄まじい衝撃波が生まれ、僕たちは木の葉のように壁際まで吹き飛ばされた。
「きゃっ!」
「ぐっ……!」
咄嗟に受け身を取るが、壁に叩きつけられた衝撃で息が詰まる。脳まで揺さぶる痺れに視界が白く点滅し、激しい耳鳴りが思考を奪う。
築き上げた連携が、たった一撃の理不尽な暴力によって、完全に崩された。
「終わりだ、小娘ども!」
権三の巨大な掌に、空気が圧縮されるような音を立てて青白い破壊の光が収束していく。周囲の空気が焦げ、オゾンの匂いが鼻をつく。
その狙いは、僕たちの守りの要――陽菜。
「――陽菜っ!!」
僕とリリィの叫びが、悲痛に重なった。
だが、もう間に合わない。
光の奔流を前に、陽菜はしかし、一歩も引かなかった。
彼女は自らの胸の前で両腕を交差させ、ありったけの魂を込めて『陽光の盾』を展開する。その小さな背中が、僕たちを守る最後の、そしてあまりにもか弱い砦だった。
「――みんなは、私が、守るんだからっ!!」
ゴオオオオオオオッ!!
破壊と守護の光が激突し、世界から音が消えた。
陽菜の身体が、凄まじいエネルギーの奔流に押し戻されていく。彼女が踏みしめる床が砕け、破片が嵐のように舞い上がる。
「……う……ぐぅぅぅ……!」
唇の端から、赤い血が糸を引いた。黄金の盾に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、砕け散る寸前の悲鳴を上げている。
それでも彼女は、決して盾を下ろさなかった。
その光景が、僕の中で何かの箍を弾き飛ばした。
怒り。無力感。そして、陽菜を、仲間を失うことへの、腹の底からせり上がってくるような根源的な恐怖。
この身がどうなろうと、それだけは絶対に。
僕は震える手で懐に手を伸ばす。
指先に触れたのは、あの紫色の結晶――エーテル結晶。脈打つような邪悪な冷たさが、指先から全身へと伝わる。
これを使えば、奴を倒せる。だが使えば、僕の身体は……。
脳裏に陽菜の苦痛に歪む顔が焼き付く。一瞬の躊躇いが、永遠のように感じられた。
僕が結晶を口に運ぼうとした、その時だった。
「――その必要はない!」
「――あんた一人に背負わせるものか!」
僕の両腕を、陽菜とリリィの小さな手が、同時に掴んでいた。
その手は汗と血に濡れていたが、何よりも温かく、力強かった。
いつの間にか陽菜は破壊光線を完全に押し返し、リリィは僕の隣に音もなく立っていた。二人の瞳が、燃えるような光を宿して僕を射抜く。
信じろ、と。
私たちを、信じろ、と。
「……ああ」
僕は頷き、エーテル結晶を強く握りしめると、再び懐へしまった。
もう一度、立ち上がる。
今度は一人じゃない。三人で。
陽菜の『陽光の盾』が、再び僕たち全員を黄金色の光で包み込む。それはもはや単なる防御ではなく、僕たちの魂を増幅させる祝福の光だ。
リリィの身体が、再び影の中へと溶け、死角へと忍び寄る。
そして僕は、光に包まれながら、ただ真っ直ぐに権三を見据えた。
「――終わりだ、伊集院権三」
リリィが権三の足元の影から現れ、その巨大な体勢を完全に崩す。
陽菜の光が権三の全身を焼き、忌まわしい再生能力を封じ込める。
仲間たちが作り出した、完璧な、最後の一瞬。
僕は僕たちの全ての想いを、祈りを、この一撃に乗せ、ミスリルナイフを権三の唯一再生していない心臓部へと、叩き込んだ。
「……ば、かな……この、私が……」
怪人・権三は、信じられないといった顔で自らの胸を見下ろす。その瞳からゆっくりと狂気が消え、一瞬だけ人間としての絶望がよぎったように見えた。巨大な身体から力が抜け、やがて動力炉の前で、完全に沈黙した。
ガシャァンッ!
その静寂を破り、部屋の扉が外から破壊される。ギルドマスターとセラさん、そして完全武装の隊員たちが雪崩れ込んできた。
「……アリア! 無事か!」
ギルドマスターが、僕たちの姿を見て、心の底から安堵のため息を漏らした。
敗れた権三は、彼らによって速やかに拘束されていく。
僕たちは、窓から朝日が差し込み始めたプラントの上で、三人、肩を寄せ合っていた。血と硝煙と埃の匂いが混じり合う中で、その光景をただ黙って見つめる。
長くて、辛い戦いが、ようやく終わったのだ。
ギルドマスターが、僕の肩を、ぽんと力強く叩いた。
「……お前たち、よくやった。橘の親父にも、いい報告ができる」
その不器用な言葉が、疲弊しきった心に温かく染み渡っていく。
全てが終わり、人化したリリィも加わった僕たちの「家族」に、新しい朝の光が降り注いでいた。




