第119話:鋼鉄の迷宮
「――散れッ!」
僕の絶叫が、合図だった。
コンマ数秒の静寂の後、三つの影が同時に床を蹴り、別々の方向へと炸裂する。
正面からぶつかれば、木っ端微塵にされる。それは分かりきっていた。今はただ、この狭苦しいドックから脱出し、地の利があるプラント内部へ――。そこにしか、活路はない。
ダダダダダッ!
背後で弾丸が嵐のように吹き荒れ、さっきまで僕たちが立っていた床をコンクリートの欠片ごと蜂の巣にする。甲高い着弾音が耳を劈き、火薬の匂いが鼻を刺した。僕たちは無数に転がるパイプやコンテナの影から影へと飛び移り、迷路のような通路をひたすら駆けた。
「陽菜! 左翼の通路を塞げ!」
「うん!」
振り向きざま、陽菜の掌から炎の奔流が迸った。ごう、と空気が鳴動し、通路が一瞬にして灼熱の壁と化す。追っ手の足が、ほんのわずかに止まった。
その数秒。それが僕たちの全てだった。
近くにあった巨大な換気ダクトの蓋をこじ開け、錆びた金属の悲鳴も構わず、その闇の中へと転がり込む。
ひやりと冷たい金属の感触。
カビとオイルが混じり合った淀んだ空気が、肺を満たす。息を殺し、肘と膝で体を押し進める。狭いダクトの中では、自分の荒い息と心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。遠くから、僕たちを探す傭兵たちの怒声と、床を踏み鳴らす軍靴の音が、不気味に反響していた。
「……はぁ……っ、はぁ……」
静寂の中、陽菜の苦しげな呼吸だけが響く。
「大丈夫か?」
囁き声で尋ねると、彼女はこくりと頷いた。だが、フードの隙間から覗く顔は青白い。あれだけの規模のスキルを咄嗟に、そして連続で使ったのだ。消耗が激しいのは当然だった。
「……少し、休む」
リリィが静かに呟いた。彼女も上陸時の戦闘からずっと、索敵のために神経を張り詰めさせていた。その美しい金色の瞳にも、疲労の色が濃く浮かんでいる。
ダクトの分岐点で、僕たちはしばし身を寄せ合った。
エレクトラとの通信は、砂嵐のようなノイズを最後に完全に途絶えた。外部の状況も、マスターたちの安否も、何も分からない。僕たちはこの鋼鉄の迷宮で、完全に孤立していた。
「……ごめん。私のせいで、みんなを……」
陽菜が俯いたまま、か細い声で呟いた。
僕がもっと強ければ。そんな言葉にならない想いが、震える小さな背中から痛いほどに伝わってくる。
僕が何か言葉をかけようとした、その時だ。
リリィが、陽菜の頭に自分の頭を、こつん、と優しくぶつけた。
「……お前のせいではない。敵が、我々より一枚上手だった。ただ、それだけだ」
その声は不器用だが、揺るぎなく温かい。
「……それに、まだ終わったわけではないだろう?」
リリィはそう言うと、ダクトの壁を前足でとんとんと叩いた。
「この壁の向こう……強いエネルギー反応がある。おそらく、このプラントの動力炉だ。そこを叩けば、活路が開けるかもしれん」
そうだ。
まだ、終わっていない。
僕たちが諦めない限り。
「……うん。そうだね」
陽菜の顔に、再び小さな光が灯った。僕も頷き、手に馴染んだナイフを強く握りしめる。
「行こう。動力炉へ」
僕たちは再び、闇の中を這い始めた。
体力も、精神力も、確実に削られていく。この先に一体何が待っているのか。
この小さな希望の光は、いつまで燃え続けてくれるのだろうか。
その時、僕たちはまだ知らなかった。
必死に進むこのダクトの、冷たい外壁一枚を隔てたすぐ向こう。
荒れ狂う嵐の海で。
一人の最強の受付嬢が、巨大な対物ライフルを構え、たった一人でこの鋼鉄の要塞の最も脆い一点に、静かに照準を合わせているということを。
反撃の轟音は、もうすぐそこまで迫っていた。




