第118話:沈黙のチェス盤
メンテナンスドックに、乾いた銃声が木霊する。
しかし、その弾丸が僕たちに届くことはない。
「ぐあっ!」「なんだこいつら!?」
狭い通路、入り組んだ遮蔽物。
そこは僕たち三人の連携を、最大限に研ぎ澄ますための最高の舞台だった。
陽菜が掲げた腕から放たれた『陽光の盾』が、通路を塞ぐように展開する。敵の銃弾がぶつかるたび、壁となった光は柔らかな音を立てて波紋を広げた。
その光が生み出す濃い影の中を、リリィが音もなく滑り抜けていく。壁を蹴り、天井のパイプを掴んで、まるで重力を無視した獣のように。傭兵たちの背後や死角に舞い降りては、その鋭い爪が一閃し、武器を握る腕だけを正確に、かつ無慈悲に引き裂いていく。
肉を断つ鈍い音と、絶叫。
混乱し、陣形が崩壊した敵の群れへ、僕は一筋の銀光となって切り込んだ。
戦闘は、瞬く間に終わった。
数分前までの喧騒が嘘のように、しんと静まり返る。床には白目を剥いて呻く傭兵たちと、無力化された銃器だけが、オイルの匂いと共に転がっていた。
僕たちは、誰一人、傷一つ負っていない。
『……見事です、女神様。第一守備隊、完全に沈黙』
イヤホンから聞こえるエレクトラの声は、どこか楽しげだ。
『ギルドマスターたちの本隊も突入に成功した模様。このまま一気に制圧できそうですね!』
「……ああ」
ナイフの血糊を軽く振って払いながら、僕は呟く。
「思ったより、手応えがなかったな」
手薄すぎる。あまりにも、あっけなさすぎる。
勝利の高揚感の底に、黒い染みのような違和感が、たしかに生まれていた。
それが確信に変わったのは、直後だった。
『――……待ってください』
エレクトラの声から、ふっと余裕が消えた。
『……おかしい。本隊が突入したエリアの生体反応が、ゼロです。もぬけの殻……? まさか……!』
――ガシャァァァァンッ!!!
エレクトラの悲鳴と、背後で分厚いシャッターが落ちる轟音は、ほぼ同時だった。
床が、空気が、凄まじい音圧に震える。
僕たちが今しがた通ってきた潜水艇への唯一の退路が、無情な金属音と共に完全に断たれた。
「なっ!?」
陽菜が息を呑む。
そして今度は、僕たちが進むべき通路の奥から。
ゆっくりと、地を這うように、無数の重い軍靴の音が響いてきた。
ぞろり、ぞろり、と。
闇の中から姿を現したのは、先ほどの守備隊とは比較にならない重武装の兵士たちだった。鈍色の装甲、規則正しく並んだ銃口。その数、目算で五十以上。
その先頭に立つ男を見て、僕の心臓が凍りついた。
パーティー会場で僕たちを追い詰めた、あの強化外骨格の隊長。
「……ようこそ、ネズミども」
ヘルメットの奥で、赤いモノアイがぬらりと光る。くぐもった声が、鋼鉄の通路に不気味に響いた。
「我々の主、伊集院権三様が、お前たちを心よりお待ちかねだ」
脳を殴られたような衝撃。
全ては、罠。
ギルドマスターたちが向かった突入ルートは、もぬけの殻の囮。権三の真の狙いは、大人たちの本隊ではない。
最初から、僕たち――アリア、陽菜、リリィ、この三人だけをこの鋼鉄の迷宮に誘い込み、確実に、そして残酷に狩るための、完璧なチェス盤だったのだ。
『女神様! 通信がジャミングされています! 外部との連絡が……ッ!』
ザザッ、と激しいノイズが走り、エレクトラの声が掻き消されていく。
退路はない。
援軍も来ない。
僕たちは、完全に孤立した。
鉄と硝煙の匂いが充満する巨大な檻の中で、復讐に燃える怪物とその駒たちと、三人きりで。
僕は、陽菜とリリィの顔を見た。
二人の瞳に、恐怖も絶望の色もない。
ただ、静かに、強く、僕と同じ闘志の炎が燃えているだけだった。それだけで、十分だった。
「……上等じゃないか」
口の端が、自然と吊り上がる。
僕は不敵に笑って見せた。
「遊んでやろうぜ。……王様のいない、チェス盤でな」
僕たちの、本当の死闘が、今、始まろうとしていた。




