第115話:決戦前夜のオムライス
作戦会議が終わり、大会議室には、重苦しい沈黙が漂っていた。
明日、僕たちは、命を懸けた戦いに挑む。誰もが、その事実を、重く、受け止めていた。
その、張り詰めた空気を、破ったのは。
「――……みんな、お腹、すかない?」
陽菜の、少しだけ、いつもより小さな、しかし、温かい声だった。
「明日、戦うんだもん。ちゃんと食べないと、力が出ないよ! 私、晩ごはん、作るね!」
彼女は、そう言うと、無理に作ったような、でも、心の底からの笑顔で、パン、と手を叩いた。
陽菜の、その太陽のような明るさに、僕たちの心も、少しだけ、軽くなる。
「よろしいですわ! わたくしも、お手伝いいたしましょう!」
クリスティーナが、勢いよく立ち上がった。
「……ふん。仕方ない。我も、手伝ってやらんでもない」
リリィも、そっぽを向きながら、それに続く。
こうして、僕たちの、ささやかな前夜祭が始まった。
舞台は、エルロード邸の、巨大で、完璧なキッチン。
「ふふん。皆様、調理の手順でしたら、私のデータベースに全て入っておりますので、ご安心を。ここは、私が仕切らせていただきます」
いつの間にか、有能顧問ペルソナのケイが、ピシッとしたスーツ姿に、なぜかフリルのついたエプロンを締めて、腕を組んで立っていた。
だが、その有能そうな雰囲気も、長くは続かなかった。
「えーっと、まず、人参を……こう、ですね!」
ケイが、慣れない手つきで包丁を握りしめ、まな板の上の人参に振り下ろす。
――スコーン!
人参は、切れるどころか、綺麗な放物線を描いて、キッチンの床を転がっていった。
「…………」
その場に、気まずい沈黙が流れる。
「あ、あはは……。ケイちゃん、料理は、あんまり得意じゃない、のかな?」
陽菜が、苦笑しながら、転がった人参を拾い上げる。
「……くっ。わ、私の計算では、完璧なはず……」
ケイは、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
「大丈夫だよ! ここは、私に任せて!」
陽菜は、そんなケイの背中を、ぽん、と優しく叩くと、慣れた手つきで、次々と指示を出し始めた。
「クリスティーナ先輩は、お米を研いでください! リリィちゃんは、そこの鶏肉を切ってくれるかな? 蓮は、玉ねぎの微塵切りをお願い!」
その姿は、まるで、熟練のシェフのようだった。料理に関しては、陽菜が、この場の、誰よりも頼りになる指揮官だった。
一人、手持ち無沙汰になってしまったケイが、しょんぼりと、キッチンの隅で小さくなっている。
僕は、そんな彼女の隣に行き、そっと、包丁を握らせた。
「……貸せ。玉ねぎくらいなら、切れるだろ」
僕は、ケイの後ろに立ち、その小さな身体を包み込むようにして、彼女の手に、自分の手を重ねた。
「……っ!」
ケイの身体が、びくっ、と硬直するのが、手に取るように分かる。
「こうやって、猫の手にして……。手前に、引くように……」
僕が、耳元で囁くように教えると、ケイは、かろうじて「は、はい……」と、か細い声を絞り出した。
(ち、近い……! 女神様が、すぐ後ろに……! いい匂い……! あ、意識が……だめ、ペルソナを、有能顧問の、ペルソナを……保て、私……!)
ケイは、内心で壮絶な戦いを繰り広げ、なんとか理性を保ちきった。
数分後、ようやくぎこちない手つきで玉ねぎを切り終えた彼女は、完璧な無表情を取り繕うと、僕からすっと離れた。
「……なるほど。理解しました。ありがとうございます、アリア様。あとは、お任せください」
そう言って、彼女は、すすすっ、と音もなくキッチンから退室していった。
その、あまりにもクールな立ち振る舞いに、陽菜が「あれ? ケイちゃん、怒っちゃったかな?」と心配そうに呟く。
だが、その心配は、杞憂だった。
キッチンのすぐ外、廊下の影。
ケイは、壁に背を預け、ずるずるとその場に崩れ落ちていた。
(あああああああ……! 女神様に、手取り足取り……! あの距離、あの声、あの匂い……! もう、だめ……! 脳が、幸せで、焼ける……!)
彼女は、顔を真っ赤にして、口元を押さえ、声にならない叫びを上げながら、一人で悶絶していた。
有能顧問のペルソナは、とうの昔に崩壊していた。そこにいたのは、ただの、熱狂的な一人のファンだった。
ひとしきり悶えた後、彼女は、すっと立ち上がり、再び完璧な無表情に戻ると、何食わぬ顔でキッチンへと戻っていった。
その、わずか数十秒間の出来事を、僕たちが知る由もなかった。
やがて、完成したのは、少しだけ不格好で、でも、みんなの想いが詰まった、温かいオムライスだった。
食卓を囲みながら、僕たちは、他愛もない話で、腹を抱えて笑い合った。
「もし、全部終わったら、みんなでまた、こうやって、ご飯、食べようね」
陽菜の、その言葉に、全員が、静かに、そして、力強く、頷いた。
夕食の後片付けを、僕と陽菜が、二人きりでする。
シンクの前に並び、皿を洗う、穏やかな時間。
「……あのさ、蓮」
陽菜が、もじもじしながら、小さな布製のお守りを、僕の手に握らせてきた。
「これね、お母さんが、昔、お父さんに渡したのと、同じ神社のお守りなんだ。『絶対に無事で帰ってくる』って、ご利益、あるんだって。だから……」
その瞳は、潤んでいた。
決戦前の、最後の、穏やかで、甘酸っぱい時間。
僕は、その温かいお守りを、強く、握りしめた。




