第108話:届かない背中
特訓が始まってから一週間が過ぎた。
陽菜は泣き言一つ言わなかった。朝早くから走り込み、夜遅くまで座学に励む。そのひたむきな努力は僕も、そして口の悪いリリィでさえも認めざるを得ないほどだった。
だが努力だけでは越えられない壁がある。
その日の模擬戦闘訓練。
初めて僕とリリィが二人同時に、陽菜の相手をすることになった。
「――始め!」
セバスチャンが涼やかな声で開始の合図を告げる。
その瞬間、僕は地面を蹴っていた。陽炎のように揺らめき、陽菜の死角へと回り込む。
陽菜が僕の動きに反応し、渦を巻く炎の壁を展開した。その判断と速度は一週間前とは比べ物にならないほど鋭い。
だが、その壁が完成するほんの刹那。
壁の向こう側、陽菜自身の足元にできた濃い影の中から、リリィが音もなくにゅるりと姿を現した。
「――なっ!?」
陽菜の驚愕の声。
リリィの鋭い手刀が陽菜の首筋、その薄皮一枚のところでぴたりと止まった。
「……終わりだ」
リリィの静かな声が中庭に響く。
戦闘はわずか十数秒で終わってしまった。
僕の規格外のスピード。
リリィの予測不能な影からの奇襲。
その二つの奔流のような才能を前に、陽菜が積み上げた努力の城は、あまりにもあっさりと、砂のように崩れ去った。
「…………」
陽菜は何も言わなかった。
ただ呆然とリリィの、自分に向けられた手を見つめている。
そして一言、「ごめん、少し頭を冷やしてくる」とだけ呟くと、僕たちに背を向け屋敷の中へととぼとぼと歩いていってしまった。
その背中は僕が今まで見たことがないほど小さく、そしてか弱く見えた。
その日の夕方。
陽菜はクリスティーナ邸からの帰り道、一人公園のベンチに座っていた。
夕日がブランコや滑り台を、寂しげなオレンジ色に染めている。
子供たちの賑やかな声はもう聞こえない。
(……だめだ)
陽菜は膝を抱え、その間に顔をうずめた。
(全然、だめ……)
脳裏に今日の模擬戦の光景が、何度も何度も蘇る。
蓮の目で追うことすらできない、圧倒的な速さ。
リリィのどこから現れるか分からない、神出鬼没の強さ。
二人の背中はあまりにも遠かった。
「私には、二人みたいに戦う才能なんてないんだ……」
ぽつりと漏れた弱音。
悔しくて情けなくて、涙が溢れてきた。
守りたい。二人の隣に立ちたい。
そう思えば思うほど、自分のどうしようもない非力さが胸に突き刺さる。
強くなりたい。
でもどうすればいいのかわからない。
陽菜はただ一人、夕暮れの公園で静かに静かに泣いていた。
彼女の太陽のような笑顔は今、厚い厚い雲に覆われてしまっていた。
そのか細い嗚咽を公園の木々の影から、小さな賢者と電子の魔女がただ黙って見守っていることを、彼女はまだ知らなかった。




