第107話:ひよっこと、二人の師匠
クリスティーナ邸の、広大な中庭。
朝露に濡れた芝生が、昇り始めた太陽の光を浴びて、きらきらと輝いている。小鳥のさえずりだけが聞こえる、穏やかな朝。
だが、その庭の一角だけは、ピリリと張り詰めた、汗と土の匂いが混じる、緊張感に満ちていた。
「――お願いします!」
陽菜は、トレーニングウェア姿で、僕とリリィの前に、深々と頭を下げた。
その声は、少しだけ震えていたが、瞳には、揺るぎない決意の光が宿っている。
「私に、戦い方を教えてください! もう、ただ守られてるだけじゃ、嫌なの!」
あの一件以来、陽菜はずっと、自分の無力さを悔いていた。
リリィが、自分のために命を懸けたこと。
蓮が、自分のために怒りを露わにしたこと。
その二つの光景が、彼女の心を強く、そして痛く、締め付けていた。
守られるだけの存在では、ダメだ。二人と、対等に、隣に立って戦える力が欲しい。
僕は、陽菜のその真っ直ぐな瞳を見て、静かに頷いた。
「……わかった。だが、生半可な覚悟じゃ、続かないぞ」
僕の脳内にある、アリアの戦闘理論。それは、常人が耐えられるような、甘いものではない。
だが、僕が了承するより先に、腕を組んで二人を見ていたリリィが、ふん、と鼻を鳴らした。
「……くだらん」
その声は、氷のように冷たかった。
「お前のような、ひよっこに何ができる。才能も、覚悟も、中途半端な人間が、戦場に出れば、真っ先に死ぬだけだ。我々の、足手まといになる」
それは、あまりにも、辛辣で、容赦のない言葉だった。
「……っ!」
陽菜の顔が、悔しさと、反発で、赤く染まる。
「そ、そんなこと、やってみなくちゃ、わからないじゃない!」
「わかるさ。お前の身体から感じる魔力の流れは、あまりにも不安定で、脆弱だ。戦いには、向いていない」
リリィは、事実だけを、淡々と告げる。
「……リリィ」
僕が、彼女を諌めようとした、その時。
陽菜は、唇をぎゅっと噛み締めると、再び、リリィの前に、深く、深く頭を下げた。
「……お願いします。どんなに、辛くても、絶対に、音を上げません。だから、チャンスをください!」
その、決して折れない心。
ひたむきな、瞳の光。
リリィは、しばらくの間、陽菜を、値踏みするように見つめていたが、やがて、大きなため息を一つついて、そっぽを向いた。
「……好きにしろ。だが、泣き言を言った瞬間、終わりだと思え」
その言葉は、彼女なりの、不器用な「許可」だった。
こうして、僕たちの、奇妙な特訓の日々が始まった。
僕が、アリアの知識を元に、戦術理論と、効率的な身体の使い方を教える『座学』担当。
リリィが、その圧倒的な実戦経験を元に、陽菜との、容赦のない組手の相手を務める『実技』担当。
「――違う! 動きが、大きい! 攻撃の予備動作が見えすぎている!」
リリィの、鋭い声が飛ぶ。
陽菜が放った火球を、リリィは、まるで戯れるかのように、ひらり、ひらりと、紙一重でかわしていく。その金色の髪が、風に揺れるだけだ。
「敵は、待ってくれんぞ! もっと、速く! 鋭く! 思考と行動を、直結させろ!」
「はあっ、はあっ……!」
陽菜は、滝のように流れる汗で、トレーニングウェアのTシャツをぐっしょりと濡らし、何度も芝生の上に倒れ込む。
その薄い生地は、汗で身体にぴったりと張り付き、健康的な身体のラインと、その下に着けているスポーツブラの輪郭を、くっきりと浮かび上がらせていた。
僕の、男としての視線は、もはや、釘付けだった。
ひたむきに努力する、幼馴染の姿。
そして、その、あまりにも、眩しい、肢体。
僕の思考回路は、尊敬と、劣情の狭間で、完全にショート寸前だった。
ピコンッ。
その時、僕の耳のイヤホンから、エレクトラの、楽しげな声が、直接、脳内に響いた。
『――いい眺めですねぇ、女神様? 陽菜様の、あの、たわわに実った果実……。いえ、鍛え上げられた、素晴らしい肉体美。戦闘データとしても、非常に、有益です』
「ぶっ!?」
僕は、思わず、変な声を上げそうになった。
「なっ、見てるのか、エレクトラ!?」
僕が、小声で抗議する。
『ええ、もちろんですとも。クリスティーナ様の屋敷の警備システムは、私の庭のようなものですから。……それにしても、アリア様? 先ほどから、陽菜様の、胸部装甲への視線固定率が、87.4%を超えていますが?』
「ち、違う! 俺は、ただ、彼女の動きの軸がブレていないか、確認して……!」
しどろもどろになる僕の言い訳を、エレクトラは、くすくすと笑うだけだった。
その頃、彼女の聖域では。
(うっひょー! 女神様、うろたえてる! 可愛い! そして陽菜様の、あの汗に濡れた姿……! あああ、尊いの供給過多で、脳が溶ける……!)
ケイは、モニターの前で、一人、身悶えしていた。それでいいのか天才ハッカー!
陽菜は、そんな僕たちの秘密の通信など露知らず、肩で大きく息をし、その瞳には悔し涙が滲んでいた。
僕は、慌てて彼女に駆け寄り、スポーツドリンクの入ったボトルを差し出す。
「……陽菜。魔力の練り方がまだ荒い。もっと、身体の中心を……」
僕は、できるだけ彼女の身体を見ないように、必死に戦術的なアドバイスに集中した。
だが、僕の視線が微妙に泳いでいることに、陽菜は気づいていない。
その、あまりにもひたむきで眩しい姿に、僕の心臓は、別の意味でもドキドキと高鳴り続けていた。
リリィは、そんな僕たちの様子を、少し離れた場所に立つ、樫の木に寄りかかりながら、腕を組んで見つめている。
その口元には、いつも「くだらん」という、冷たい言葉が浮かんでいる。
だが、その金色の瞳の奥にほんの少しだけ羨むような、そして、どこか懐かしむような複雑な色が浮かんでいるのを、僕だけは気づいていた。
矛と、盾と、そして、それを導く者。
僕たちの間には、いつしか、師弟のような、そして、ライバルのような、新たな絆が、芽生え始めていた。
陽菜が、本当の意味で、その才能を開花させるまで、あと、もう少し。
厳しくて、温かくて、そして、僕の理性にとっては、少しだけ過激で、騒がしい特訓の時間は、続いていく。




