第106話:賢者の(恥ずかしい)新習慣
僕の人生最大の告白から数日、僕たちの日常は再び形を変えていた。
クリスティーナ邸から僕たちの狭いアパートへと正式に引っ越してきた新たな同居人。
金色の髪と獣の耳を持つ賢者の少女――リリィが加わったのだ。
その朝、僕が微睡みの中で最初に感じたのは、身体にぴったりと寄り添う温かい感触だった。
右側からは陽菜の甘いシャンプーの香り。
そして左側からはリリィの、少しだけ癖のある髪の匂いと日向のような温もり。
……そう。僕は今二人の美少女に両側からサンドイッチされるように、ぎゅーっと抱きしめられていた。
これがここ数日の僕たちの寝室の新たな日常風景だった。
「ん……蓮、おはよう……」
僕の胸に顔をうずめたまま、陽菜が幸せそうに寝言を言う。
僕が少しだけ身じろぎすると、左側で眠っていたリリィの金色の瞳がゆっくりと開いた。
そして僕の顔が至近距離にあることに気づくと、はっとしたように目を見開いた。
「……あ…」
彼女はぼそりとそう呟くと、顔をみるみるうちに真っ赤に染め弾かれたように僕から飛びのいた。
そしてベッドの隅で体育座りをしながら僕をじろりと睨みつける。
「……し、仕方ないだろう! 習慣になっていただけだ!」
その可愛らしい逆ギレに僕は思わず苦笑するしかなかった。
受難はそれだけでは終わらない。
風呂上がりの夕食後のことだった。
僕がソファで本を読んでいると、背後からふわりと温かい感触が僕の背中にもたれかかってきた。
見るとリリィは風呂上がりでタオル一枚すら身につけていない、生まれたままの姿だった。
まだ湯気と水滴が残る白い肌。しなやかな身体のライン。
彼女は自分が何をしているのか気づいていないのか、僕の肩にこてんと頭を乗せてくる。
「……おい、リリィ」
僕がかろうじてそれだけを絞り出すと、リリィははっとようやく自分の状況を理解したようだった。
彼女は悲鳴のような声を上げると僕の頭を、両手でぐりんっと無理やり前へと向けさせた。
「こ、こっちを見るんじゃにゃいーっ!!」
その声は完全に裏返っていた。
その騒ぎを聞きつけキッチンから陽菜がひょっこりと顔を出した。
「もー、リリィちゃんまたやってるの? 蓮、見ちゃダメだよ!」
そう言いながら陽菜はなぜか僕の目を両手で覆い隠し、こっそりとリリィの裸を観察している。
「ひ、陽菜!? お前も見るな!」
「い、いいの! 女の子同士なんだから大丈夫!」
リリィは、顔を真っ赤にしたまま、慌ててバスルームへと逃げ込んでいった。
その日の夜。
三人での賑やかな夕食を終え、リビングでくつろいでいた時のことだった。
僕が、猫の癖が抜けきらないリリィの奇行に頭を悩ませていると、陽菜のスマホから、少しノイズ混じりの、特殊な着信音が鳴り響いた。
「あ、お父さんたちからだ!」
陽菜は、嬉しそうにそう言うと、通話ボタンをタップし、スピーカーモードに切り替えた。
『――陽菜か! 元気でやってるか!』
スピーカーから聞こえてきたのは、少し日に焼けた、快活な男性の声。そして、その後ろから「あなた、声が大きいわよ」と、優しげな女性の声も聞こえる。
「うん、元気だよ! お父さんも、お母さんも、怪我してない?」
『ああ、こっちは問題ない! それより、そっちは大丈夫なのか? クリスティーティーナ嬢から聞いたぞ。また、物騒な事件に巻き込まれたそうじゃないか』
『本当に、心配したのよ? あなたが無事で、本当によかったわ……』
両親の、心からの心配の声。
僕とリリィは、言葉もなく、そのやり取りを聞いていた。
陽菜は、二人に心配をかけまいと、努めて明るい声で答える。
「だーいじょうぶだって! 私も強くなったし、それに、今は頼もしい『友達』も、一緒にいてくれるから!」
彼女は、そう言って、僕とリリィの顔を見て、悪戯っぽくウィンクした。
『ほう? 友達か! そりゃあ、頼もしいな! 今度帰ったら、ぜひ紹介してくれよ!』
『あなた、もう…。でも、陽菜。本当に、無理だけはしないでね。約束よ?』
「うん、わかってる!」
短い通話を終えた後、陽菜は、少しだけ寂しげに、でも、誇らしげに微笑んだ。
「……ごめんね、二人とも。うちの両親、ああいう感じなんだ。二人とも、壁外の、すごく遠いところで、お仕事してるから、たまにしか連絡取れなくて」
机の上に置かれた一枚の写真立て。そこには、幼い陽菜と、冒険者のような装備に身を包んだ、若い男女が、笑顔で写っていた。
「……別に」
リリィが、そっぽを向きながら、ぽつりと呟く。
「……いい、ご両親じゃないか」
「うん!」
陽菜は、満面の笑みで頷いた。
僕も、彼女の、その笑顔を守りたいと、改めて、強く思った。
その後の時間は、再び、いつものドタバタに戻った。
僕がリビングのラグの上でテレビを見ていると、いつの間にかリリィが僕の隣にすりと寄り添っていた。
そしてそのままごろんと仰向けに寝転がると、無防備な真っ白なお腹を僕に見せつけてくる。
それはまさしく僕に「撫でろ」と要求する、猫そのもののポーズだった。
「……お前なぁ」
僕が呆れてその柔らかそうなお腹を、むにむにとしたその時。
リリィははっと我に返った。
彼女は再び顔を真っ赤にすると飛び起きて立ち上がった。
「……な、なによ」
そう言いながら自分の服についた見えない埃を、ぱっぱっと必死に払ってごまかしている。
そのあまりにも分かりやすい照れ隠しの仕草を見ていた陽菜が、くすくすと笑いながらリリィの隣に座り込んだ。
「リリィちゃん、蓮に撫でてもらうの好きなんだねぇ」
「なっ!? ち、違う! これはその……猫だった頃のただの条件反射だ!」
「ふーん?」
陽菜はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべると、今度は自分の手でリリィのお腹をわしゃわしゃと撫で始めた。
「にゃっ!? ひ、陽菜! お前まで……! ごろごろごろ……くっ、やめるにゃ……ごろごろ……」
リリィは抗議の声を上げながらも、その身体は正直に気持ちよさそうな振動を返してしまう。
そして極めつけは昨夜のことだ。
僕がソファでうたた寝をしていると、顔の近くで何かが動く気配がした。
すんすん……
聞き覚えのある匂いを嗅ぐ音。
僕がうっすらと目を開けると、目の前にはリリィの好奇心に満ちた金色の瞳があった。
彼女はまるで観察するかのように、僕の顔の匂いを熱心に嗅いでいたのだ。
そして彼女は猫だった頃の癖なのだろう。
僕の鼻先をぺろぺろと、その小さな舌でなめはじめてしまった。
柔らかくて温かい感触。
「…………」
「…………」
僕とリリィの目が至近距離で合う。
時が止まった。
ばっ!
僕とリリィは同時に凄まじい勢いで、互いに距離を取った。
リリィは部屋の隅まで後ずさると、僕のことをわなわなと震える指で指差した。
「…………っ!!」
ぐっと一拍。
「し、仕方ないだろうっ!!」
もはや僕たちの家は毎日がこんな調子だった。
少女(蓮)と少女(陽菜)と、そして猫の時の癖が抜けきらない賢者の少女。
僕の男としての理性はすでに限界ギリギリ。
この賑やかで少しだけ(いや、かなり)危険な日常は、まだ始まったばかりだった。




