第98話:小さな命
クリスティーナ邸の静寂に包まれた医療室。
消毒液の匂いが鼻をつく。
真っ白なシーツの上でリリィは小さな寝息すら立てずに、ただ眠っていた。
胸には痛々しい包帯が巻かれ、その横では生命維持装置のモニターだけが無機質な電子音を規則正しく刻んでいる。
「……物理的な外傷は完治しているわ。問題はそこじゃない」
医療室の隅で白衣を纏った九条先生は、腕を組みながら険しい顔で言った。
「この子は自分の魂……生命エネルギーそのものを燃料にして、燃え尽きてしまったのよ。今の彼女は例えるなら燃料が空っぽになった美しいエンジンみたいなもの。……あとは奇跡でも起きない限り……」
それ以上彼女は何も言わなかった。その沈黙が何よりも雄弁に、残酷な現実を物語っていた。
僕たちはただベッドの上で眠る小さな命を、見守ることしかできない。
希望という名の光が指の隙間から、さらさらとこぼれ落ちていくような無力感。
その重苦しい沈寞を破ったのは、部屋の隅に置かれていたちびケイちゃんのホログラムだった。
『――諦めるのはまだ早いですよ』
いつものドジな声ではない。冷静で理知的なエレクトラの声。
彼女は数日前からこの医療室のシステムに常駐し、リリィのバイタルデータを24時間体制で監視し続けていたのだ。
『私の分析によればリリィ様の生命エネルギーは、ゼロになったわけではありません。ただ自己修復のトリガーとなる『核』が、休眠状態に陥っているだけです』
ホログラムの横に複雑なエネルギー波形のグラフが表示される。
『この『核』を外部からの強いエネルギーで刺激できれば……再起動できる可能性はあります』
「外部からのエネルギー……?」
僕が問い返すと、ホログラムはこちらを向いた。
『例えばアリア様のような規格外の生命エネルギーを持つ者の、直接的なエネルギー譲渡。あるいは……』
彼女はベッドの横で憔悴しきった顔でリリィの手を握る、陽菜に視線を移した。
『……純粋で強い想念エネルギー。愛や祈りといった、非科学的ですがしかし時に物理法則を凌駕するほどの、奇跡を呼ぶ力』
エレクトラの言葉は僕たちに新たな、そしてあまりにも不確かな希望を与えた。
だが陽菜はその言葉に、すがるように顔を上げた。
彼女はあの日からずっとリリィのそばを離れなかった。学校も休み食事も喉を通らない様子で、ただひたすらにリリィの手(肉球)をその両手で包み込むように握りしめていた。
「……覚えてる? リリィ」
陽菜が、眠るリリィに、語りかけるように呟いた。
「初めて会った日、川に落ちてずぶ濡れだったよね。蓮が助けてくれなかったら、どうなってたか……」
彼女の脳裏に、リリィとの、他愛もない日々の記憶が蘇る。
膝の上で眠った時の、温かさ。
新しい首輪を嫌がった時の、生意気な顔。
僕とゲームをしている時に、横からちょっかいを出してきた、小さな肉球。
その全てが、かけがえのない宝物だった。
「……リリィが来てくれて、私、すごく嬉しかったんだよ……」
陽菜の瞳から、再び涙が溢れ出す。
クリスティーナも、友人たちも、ただ黙って、その光景を見つめていた。
僕たちの日常に差し込んだ一筋の気高き光。
その小さな命の灯火は今、一人の少女の祈りと一人の魔女の計算によって、かろうじて繋ぎ止められていた。




