第96話:金色の流星
「――これで、終わりだ」
強化外骨格の隊長が、無慈悲にその鋼鉄の拳を振り上げた。
陽菜は壁際に追い詰められ、もう逃げ場はない。
砕けた床の破片でドレスの裾は破れ、頬には一筋の傷が走っている。
彼女はぎゅっと目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、愛しい幼馴染の銀色の髪。
その全てが終わると思われた刹那。
隊長の巨大な影。その影が不自然に、そして濃く蠢いた。
(――我が魂を、糧とし)
二階のテラス、隊長の死角でリリィの小さな身体が蹲っていた。
その全身から淡い金色の光の粒子が、まるで蛍火のように霧のように静かに立ち上り始めている。
それは彼女の生命そのものの輝きだった。
彼女は己の中に眠る全ての力を、今この一瞬のために解き放とうとしていた。
(――古き契約に基づき、この脆弱なる器を解き放て!)
リリィの身体が急速にその形を変えていく。
ごきりと骨が軋み、ぶちぶちと筋肉が隆起する生々しい音。
漆黒の毛皮は陽光を溶かし込んだかのような美しい金色の体毛へと変わり、その華奢な四肢はしなやかに、そして力強く伸びていく。
それは創造であり、同時に破壊の響きだった。
(――来たれ! 我が真の姿よ!)
光の奔流が収まった時、そこにいたのはもはや猫ではなかった。
しなやかな少女の身体。
背中まで伸びる美しい金色の髪が、大広間の気流にさらさらと揺れている。
そしてその髪の間から、ぴんと立つ愛らしい獣の耳。
瞳は変わらない、気高い金色の光を宿している。
外見年齢は12歳ほど。まだ幼さを残すが、その身にまとうオーラはまさしく古代の賢者のそれだった。
――人化。
だがそれは彼女が望んだ完璧な姿ではなかった。
彼女の世界と異なり、この世界の魔素濃度はあまりにも希薄だった。力の制御が完全ではない。無理やり自らの魂だけを削ってこじ開けた、不完全な覚醒。
その証拠に、彼女の白魚のような手の指先は、まるで血に染まったかのように鋭い深紅の爪へと変貌していた。
「……なっ!?」
隊長が背後に生まれた新たな、そして圧倒的なプレッシャーに気づき、驚愕に目を見開いて振り返る。
だがもう遅い。
「――間に、合えっ!」
人化したリリィの身体が床を蹴った。
それはもはや猫の俊敏さではない。
音を、光を、思考すらも置き去りにする、まさしく神速。
金色の流星と化した彼女は隊長の懐に一瞬で潜り込むと、その深紅に染まった爪を強化外骨格の最も分厚い胸部装甲めがけて振り抜いた。
――ザシュッ!!!
紙を切り裂くような、あまりにも軽い音。
特殊合金で作られたはずの装甲が、まるでバターのようにあっさりと、そして滑らかに切り裂かれていた。
「……ばかな……」
隊長が信じられないといった顔で自らの胸を見下ろす。
そこには五本の深い爪痕が刻まれていた。内部の動力パイプが切断され、火花が散っている。
陽菜は目の前で起きた、あまりにも非現実的な光景にただ目を見開いていた。
小さな黒猫が金色の髪の美しい少女へと姿を変え、あの鋼鉄の巨人を一撃のもとに切り裂いた。
「……リリィ……ちゃん……?」
か細い声でその名前を呼ぶ。
だがリリィの決死の一撃もこれが限界だった。
無理な力の解放は彼女の魂を大きく、そして致命的に削り取っていた。
視界がぐにゃりと歪む。
「……ぐっ……!」
彼女の身体から急激に力が抜け、その姿は再び小さな黒猫へと急速に戻っていった。
そして隊長が最後の力を振り絞って放ったアームの薙ぎ払いを、そのあまりにも無防備な小さな身体にまともに受けてしまった。
「――にゃっ!」
か細い悲鳴。
リリィの身体はまるで投げられた人形のように壁に叩きつけられ、そして力なく床へと転がった。
その瞬間を、僕は見ていた。
足元の傭兵を蹴り飛ばし、血の滲むような思いで手を伸ばした、その先で。
「――リリィィィィィィィッ!!」
僕の絶叫が、静まり返った大広間に虚しく響き渡った。




