第08話 予兆
鎖場を越え、脇に抱えていた荷とヴィヴィエンヌを降ろす。
「……お礼を言っておきますわ。我が夫トリスタン」
彼女は頭を振りながらそう言って、重い荷物を一人で背負ったまま、またえっちらおっちらと歩き出す。
山頂はすでに見えている。夜も深くなり、天体観測にはちょうど良い塩梅だ。
案内係の俺は、逆についていくくらいだった。
「君は、強いんだな」
「……よく言われますわ」
彼女はあくまで、案内をさせるだけで、荷もすべて自分で持って、歩こうとしていた。
あの小さな体に、それも、ランキエールの女の半分ほどの細さしかないのに、どこにそんな力があるのかと不思議に思う。
彼女について、誤解をしていたかもしれないと思った。
確かに、強い女ではあるのだろう。しかしそれは天性のものでは決してないし、不断の努力と、そうあろうという意思。そして、人を平気で利用するようで、どこか毅然とした自己の責任意識と、ともすればすべてを背負い込んでしまうような真剣さがある。
「だが、無理はするな。一度俺を頼ったのなら、荷物くらい持たせてくれ」
そう言って、俺はひょいと彼女の荷物を取り上げる。
「あら? ようやく気付いてくれましたわね」
「減らず口を」
山頂まではずっと平坦な道だ。
荷物を持った俺と、荷から解放されたヴィヴィエンヌ。
これでようやくちょうどくらいの歩幅になる。
その途中で、俺はずっと気になってきたことをふと、聞いてみた。
「なぜ初対面で、俺がトリスタンだとわかった?」
そのまま続けて問う。
「王都には俺の容貌は伝わっていなかったはずだ。ましてや」
「このランキエールの地で、体の小さい男が、何かの長であるとは思えないだろうって?」
俺の言葉を引き取って、彼女は言った。
「あなた、私からすれば十分すぎるくらい大きくってよ? 王都の騎士団でもあなたくらいの体格の人はなかなかいないわ」
「それはまあ、王都の基準ではそうだろうが」
「そうねぇ、まあ、勘と言えばそれまでだけど」
気を悪くしたらごめんなさいね、と彼女は前置きする。
「コンプレックスの香りと、それを克服した自信かしらね」
そして事もなげに、そうまとめた。
「具体的なことがわかったわけじゃないわ。でもあの余裕のある大男たちの中にあって、あなたの目の鋭さは違った。あれは何かを乗り越えてきた者の目よ」
「……そういうものか」
「推測するに、源はまさに体の相対的な小ささでしょう? 相当苦労したはずよ。このランキエールでしばらく暮らしてみれば、この地の男子が体格と武力にどれほど支配されるのかは想像がつきます。それに、侯爵とあそこまで体格差があれば、血も疑われる」
図星だった。
俺は確かに両親の子だったが、ランキエールの子供たちの中にあって、本当にずっと「一番小さなトリスタン」のままだった。領主の息子が小さく弱い、というのは、それだけで父上の血と威信が疑われることでもある。
だから戦い方や体の動かし方を覚えたし、人を従えることも考えたし、その証明のために、魔獣討伐に際して無謀にも一番槍を名乗り続けていたこともある。
そうして向き合い続けてきた己の体は今となっては誇らしいが、一方でまだ、単純な重量では周囲に負けている恐怖感と、不利な状況を常に覆し続けねばならない重圧は抜けないままだ。
「けれど、知性というのは、そういったことの反発として形作られるものでもある。私はそれに反応して、びびっと来たんでしょうね」
「……びびっときて、くれたか」
「ええ。来ましたとも」
それからは会話がなく、また歩いたのみだった。
山頂に到着して空が開けた。
何度も見たはずの星空が、信じられないほど美しく思えた。嘘のように多い星が、見上げていると、まるで落ちてくるかのようだ。
ヴィヴィエンヌもしばらくは空を見上げてため息をついていた。
しばらくして彼女は、俺が抱えていた鞄の中から、数多の測量機器を取り出して星を観測し始めた。
まず天文盤を使い、どうも暦と星の大まかな位置を把握したようだ。それからは四文儀を水平に立てて、仔細に星の位置を定めている。
どうも最初から、呑気に星を見に来たわけではないらしい。
彼女がある程度作業を終え、考え、結論したそうな頃合いになって、聞いた。
「……そろそろ教えてくれないか。なぜ今日、星を見に来たのか。そしてそれが、使用人に悟られてはならない理由も」
「ここに来たのは、天候を占うためですの」
それは、そうだろうという納得はいった。
ただ、占星術は難しい。高い確度で当たるものでもないから、何か別の要素と併せねば使えない類だ。
「例の聖女とクロレンヌ王国の騒ぎは、ご存じ?」
「大使が無礼を働き、聖女が打ったというやつか」
「そうです。そのあともう拗れに拗れて、最終的にクロレンヌ王国側が報復として、雑穀にわずかな関税をかけたそうよ」
雑穀。
この場合はおそらく、家畜あるいは農民の安価な食べ物を制限したということだ。
「報復にしては妙だな。聖女の支持を下げるなら、もっと目立つものを短期的かつ大幅に値上げしてやればいい」
「そう。つまり聖女の無礼は口実で、クロレンヌ王国は最初から備蓄を増やそうとしていたの。それで私、各国の輸出動向も見てね。で、最後ににわか仕込みの占星術で証拠も探そうと思ったわけ」
彼女は確信めいた笑み──いや、次の事柄は、笑っていいことではない──を浮かべて言った。
「近いうちに、干ばつが起こるかもしれません」




