第19話 ドルナク①
王太子の結婚式は、冬の到来の前に行われることと相成った。
ほとんど滑り込みのような形だ。リスヴァロン王国の要人──すなわち、貴族のことになる──の数は、古来からの臣下である剣貴族二千家と、新貴族の八千家を合わせて計一万家にも上る。地方貴族にとってはせいぜい一月そこら前の通達で、全員を王国中から王都に集めようなど無茶も無茶だ。緊急の一大事業と言っていいだろう。
ドルナク公爵からの返答が着いた時点で、俺、ヴィヴィエンヌ、父上の三名はランキエールの精鋭部隊を連れ、馬車に乗ってただちに王都の隣のドルナク領へ出発することになった。
ランキエールの部隊を連れていくのは、ドルナク公爵たっての希望に応えてのことである。
一応は、道中危ないだろうし、娘の安全を確保するため、という書き方はしてあったが、正式な意図は不明だ。実はヴィヴィエンヌが来てから今に至るまで、ランキエールとドルナクは踏み込んだ連絡を取れないままでいた。ヴィヴィエンヌは王太子によって断罪された身であり、彼女宛てへの手紙にはすべて検閲が入る。新聞ですら、包装紙に包んだ未開封のものでしか授受が許されないほどで、彼女の側からドルナクに知らせる内容も、なんの情報も含まれない個人的な感想程度が限界だった。
この意味では、王太子の結婚式というのは、ランキエールとドルナクが改めて正式に話し合いの場を設けるための良い口実とも言える。
しかし、そのことについてのヴィヴィエンヌ本人の気持ちは窺い知れない。
アドリアン殿下に断罪された娘の実家が、今どのような状況にあるのか。家の者たちがどのように彼女を迎え入れるのか。はたまたドルナク公爵はランキエールとの婚姻をどう考えているのか。
揺れる馬車の中、憂げな目で手元の書類を眺めるヴィヴィエンヌを見て、俺が思うことは一つだ。
「さてトリスタン。次よ。では第二、五、十七、十八、二十王子の名前と、それぞれについてコルヴメール卿及びポルトラン卿の血筋の者は?」
「ソラン、デュラン。えー十七は、……ロシュラン、それでフェルゴー。二つ飛んでロクヴァロン。で……えー」
「そこは正解。コルヴメール卿はスズ川を持っていて、ポルトラン卿は馬鈴薯を持ち込んだ人よ」
「……デュランとロシュラン?」
「正解。じゃあ次は……」
──暗記が、とても、辛い。
非常に情けない話だが、俺は生まれてこの方ランキエール周辺でしか暮らしてこず、王都の詳細な事情にはとんと疎かった。これでは微妙な立場にいる公爵家の娘の夫としての責務が果たせぬということで、結婚式に参加する予定が定まった瞬間から、ヴィヴィエンヌ自らによる貴族教育が始まったのである。
「次は王女。第四、八、十三のフルネームと、そのうち引っ込み思案で有名なのは誰?」
「デュリエルにマリネット、ミュリーヌだな。引っ込み思案なのは第八王女のマリネットだ。えー、典礼以外では姿を見せないんだったか」
「正解。あなた、本当に覚えが早いわね」
「……まあ、仕事ならな」
立場として部下の名前を覚えねばならない以上、こういう類の暗記は慣れぬことではないが、如何せん結婚式となると覚える量が多い。こうしてテスト形式で頭に入れていく他なくなってしまう。
無知は痛感しているが、今からでも努力する所存だ。
あと、ヴィヴィエンヌは、自身の出した問題に答えてもらって、「正解。」と言うのが楽しいらしい。俺が正答するたび、合わないランキエール仕様の席の上で、脚をぷらぷらさせて喜んでくれる。本人は無意識らしいが。
……い、いや、馬車の改装はしようとしたのだ。彼女専用の席を定め、踏み台を設置し、腰と尻を守るようクッションも貼って、豪華な肘掛けも誂えた。
ただ、当のヴィヴィエンヌが、
「これではまるでぼんぼんの童のようじゃありませんか!」
と言ったのでそれはなかったことになった。
それでも揺れる馬車の中で椅子が合っていないのは危なかろうと思ったので、体を押さえる革帯と、紙束を差しておく棚を付けた肘掛けだけは取り付けてみると、
「これなら実用的で良いわね」
と大変上機嫌になってくれたので、そうすることになって今に至る。
実際に足をぷらぷらさせて腰を革帯で押さえる格好と、自分が出した問題が正解されたときに喜ぶ様は、どこから見ても余計に童のそれだったが、水を差す理由もないので一同は口を噤んだままだ。
道中はそのように、いたって平和に進んでいった。
◆◆◆
ドルナク領は王都に隣接し、そして王都直轄領のレーンヴァルド領(王子がここの公爵に叙されれば王太子となる)の隣にある。それだけドルナク家というのは古来より王家に近く、信頼されてきた第一の家臣ということだ。
そこに近づくにつれて馬車の揺れも収まり、街道がどんどんと整備されていくのが素人目にもわかった。見える畑の方は逆に辺境のそれよりも権利が難しいのか入り組んだ形に変わり、しかしそれでいて拓けているから見晴らしは良く、どんなところにも民家がまばらに存在するという、どうまとめれば適切なのか難しい景色を経て、そういうことは人の気配と言えば良いとわかるようになる。
ドルナク領は小さく人口も少ないと聞いていたが、開拓されている範囲が、辺境のそれより圧倒的に広い。
ヴィヴィエンヌがランキエールで行おうとしていた改革が、このような、都市の人工的な方を向いているのだということをなんとなく察することができた。
──ここが、彼女が育った地。
そのように思うと、ただ義実家に向かうこと以上に、何かを試されているような気がして緊張感を覚える。ドルナクの屋敷が近づくにつれて、ヴィヴィエンヌも窓の外を見つめるようになって、口数が少なくなっていった。
ランキエールの馬車が奇怪なのか、怪訝な目をするドルナクの領民を傍目に、小高い丘を抜け、領地の奥まった森の部分に向かう。
次第に屋敷が、真正面に均整と荘厳をまとって現れた。
自然の中にあって不自然なほど左右対称である。歴史の重みをまとって黄ばんだ石灰石の切り石が端正に積まれ、その上に褪せた群青色の屋根が乗る。石の一つ一つの細かさ、建築にかけた時間というものが、近づいてくるたびに理解できてくる。中央に張り出した主棟は伝統的な三角破風で飾られ、中にはドルナクの家紋である猟犬の像が象られていた。
装飾は極めて少ない。
ただ、垂直に積まれているはずの石の陰影に、飾る必要のない伝統が見える。囲いの壁も、あくまで境界を示すだけの最低限のものだ。
門の前に馬車を停め、降り、いざその屋敷に向かい合うと、まるで文化の宝に相対したようで、ランキエールの精鋭たちはふるまいに困ってしまった。
ヴィヴィエンヌはただ、努めてなんの感傷も見せないように実家に向き合っている。ランキエールに来たときのように、彼女の側から何か行動を起こすつもりはないらしい。
先に行ったのは、もちろん、当家の長である父である。
父が歩むと、門が開くと同時にのべ百人ほどの使用人たちが、前庭の通路の脇に整列した。
使用人たちは静かに、ごくごく浅いものの、確かに、儀礼としてのお辞儀をする。俺はそれで少し驚いた。
公爵が格下の侯爵を迎えるのだから、このような整列は威圧の意味が大半のはずだ。それでも礼をするということは、目上の者による最大限の礼を表している。
ヴィヴィエンヌも、俺と共にランキエールの戦士たちと共に父に続いた。
その最中、彼女は小さく俺に呟く。
「ずいぶん、減ったわね」
「これで少ないのか?」
「前は三列に並んでいましたから」
「……左様か」
列の奥には、二名の年配の夫婦と、一人の青年がいた。
公爵夫妻に、おそらくはその息子、長男のヴィクトールである。
ドルナク公爵──エルシオン・ドルナク──は右手を挙げ、父を迎えた。
「ようこそドルナクへ。ランキエール卿」
「ははぁ。このたびのご招請、身に余る光栄にございます」
大きな背を曲げ、頭を下げる父に、対するドルナク公爵は、不思議な雰囲気を持っている御仁だった。
色が完全に抜けきった白髪に、背はランキエールの男とは比べるべくもなく小さい。背を曲げれば夫人の方が大きいくらいだから、おそらく、王都の基準でも小柄で細身の部類に入るだろう。髭も蓄えておらず綺麗に剃っている。服も正式ではあるが質素で、腕をまっすぐ伸ばせばちょうど床に着く短い杖だけを携えている。
つまり公爵には、装いで相手を威圧するという発想がないのだ。
慄くことなくただ余裕綽々としていれば、相手は従い、物事は然るべき方面に行く。次第に尊敬も集まる。そういう真実を体現するかのようである。
ただ、彼の目だけは、そういう落ち着きとは一味違う。
どこか若いいたずらっ子のような煌めきが、俺には一瞬だけわかった。
あれは、たまにヴィヴィエンヌが見せる思いつきの目だ。
「しかしながらランキエール卿。のっけから大変失礼かとは存じますが……」
そう言ったドルナク公爵の前に、夫妻の隣で佇んでいた青年ヴィクトールが躍り出た。
彼は父上すら追い越し、俺とヴィヴィエンヌの前に真剣を持って歩み寄って、宣言するかのように言い放つ。
「不躾ながらトリスタン殿。ただ今より、決闘の儀をお受け願いたい。僕が勝った暁には──」
その凛々しい青年は、ちょっぴりへっぴり腰になりながら、剥きだしの剣を突き付けてきた。
「──ヴィ、ヴィヴィエンヌを返してもらおうか!」




