第17話 侍女頭ロゼット④
どうしてここがわかったんでしょうか。
……冷静になってあたりを見回せば、座ったとて私の頭は岩の上に出ていました。見つけるのは容易でした。
「まったく。いなくなったと思ったら、なーにをいじけてるんだか」
奥様は童を相手にするように言います。
面目ない。
けれども、それでもなお、私は背中のずっとずっとむこうの会場が、気になって仕方がありませんでした。
──奥様が、ここにいるということは。
私のその気持ちを察してか、奥様はあっさり言いました。
「カイルなら負けましたわ」
聞いた途端私は、とても、とても、もう、あんなに頑張っていたカイルに申し訳なくなるくらい、肩の力が抜けてしまいました。
「ロゼット。あなた今、ほっとしたでしょう」
それを、奥様にズバリと言い当てられました。
「まあ見ればわかるものでしたが、あなた、いつからカイルを好いていたの?」
「好いて!? その、好いて、など」
私はこの期に及んで言い訳をしようとしました。
けれど、奥様がそんなことは許さないとばかりにじっと見つめてくるので、観念して答えました。
「……もしかすると、ずっと、昔から、かもしれません」
「もっと早く認めていれば簡単だったのに」
「うっ」
その言葉はぐさりと私の胸に刺さりました。
「で、ですが奥様、いいのです。カイルにも、良い相手ができたということでしょうから。優勝できなかったということなら、今日はその、違っても、いずれ、そういうことにも、なるでしょう」
もう遅いものは仕方ありません。
素直になれなかった私が悪いのです。
「カイルはその、あんなんですが、良いやつ、です。今日、皆に強さを認められたわけですから、いろんな人が、彼を見直します。きっと彼なら、誰だって幸せにできます」
ああもう、情けないったらないです。
もう途中からは独り言のようでした。
奥様はそれを聞いて、心底呆れたように天を仰ぎます。
「ふーぅ。ほんっとう、ランキエールの女は鈍くていけないいけない」
それから、深いため息をついて、次のように続けました。
「……嫁取り武闘の慣習は何も、優勝した者だけに効くものではないでしょう。大会に出たというだけで、想いを伝えたい誰かがいるという示唆になり、その示唆があからさまにすることだってある。そして中には、それだけで十分な、それだけが足りなかった男女もいる」
奥様は振り返って、ひらひらと手を振り、会場に戻っていきます。
「あとはお二人でごゆっくり。世話を焼きこそすれ、部下の恋路を囃し立てるほど、悪趣味ではありませんもの」
去っていく奥様の反対側に、影がありました。
それはいつも、ずっと昔から見かけていた、大きな大きな、ランキエールでも一番大きな大男の影でした。
私はそれでようやく、奥様がなぜ彼を武闘に誘ったのかとか、彼がなんのために戦っていたのかということを知りました。
自分の早とちりっぷりに呆れるのと、飛び跳ねるくらい実感がなくて浮つく気持ちと、半分半分。
そして、もう弱点なんてどこにもないんじゃないかってくらい、優雅かつ堂々たる奥様の後ろ姿に、返しきれないくらいの感謝をしました。
──ああ、私は一生、この奥様に頭が上がらないんだろうな。
心の底から、そう思いました。
***
会場に戻って、私は台座に置かれている、その年の収穫でもっとも実りある麦穂の束、を手に取った。
嫁取り武闘の優勝者にこれを渡すのが、ランキエールの女主人の役目なのだ。
……まあ、当の優勝者は、私の夫であるトリスタンなのだが。
とんだ茶番である気もしたが、私が麦束を両手で持ってトリスタンの前に立つと、先ほどの激闘も冷めやらぬ勢いのまま、大歓声が巻き起こる。
「優勝おめでとう、トリスタン」
そう言うと同時に麦束を渡す。会場は大きな拍手に包まれた。
拍手の中で、こそっとトリスタンが聞いてきた。
「さっきはどこに行ってたんだ?」
「ロゼットのところよ。ちょっと世話を焼いてあげましたの」
さっきまで私がいた方角、トリスタンからすると斜め左の方に目配せをする。
……一瞬、あのカイルの巨体が宙に浮かされているのが見えた。そんなことができる乙女はもう一人しかいないだろう。なんでそんなことになっているかはわからないが、空中のカイルは戸惑いながらも照れていたので、どうやらちゃんとうまくいったようだ。
トリスタンはくすりと笑う。
「……もしかして、君がカイルを?」
「まあ、彼らには世話になっていますから」
「なーにか企んでいると思ったら、そういうことだったか」
「あの二人、どう見ても好き合っているのにじれったいったらありゃしないんですもの。まーったく、好きなら好きとさっさと言えばいいのに。理解に苦しみますわ」
さてさて、これで私の今日の仕事もおしまいだ。早く水車の動きと水の流れを確認してから、種蒔きの計画を修正したい。
そういう、心ここにない私の顔を、トリスタンはじっと見つめていた。
その顔は少し不可解そうにも見えたので、そういえば、と思い出すことがあった。ロゼットに世話を焼いてやろうと思うあまり忘れていたのだ。
──彼はなぜ、この嫁取り武闘に出たんだろうか。
「聞き忘れていたんですけれど、トリスタン。あなた、どうしてこの大会に出ましたの? そもそも既婚者でしょうに」
「……は?」
「まあ青年たちとその未来の妻の尊敬を勝ち得るということでは、非常に効果的だったと思いますが」
嫁取り武闘のトリスタンはそりゃあもう強かった。
夫としても戦力としても将としても申し分ない。ランキエールの若者たちにも改めて力を存分に示せたことだろう。
トリスタンはため息こそつかないもの、麦束を片手に頭をがしがしと掻き、あきれ半分で返した。
「いやそれは、君に愛を伝え、求婚するためだろうよ」
……求婚?
「まさか、わかってなかったのか?」
「どういうことですか。私たちはもう夫婦でしょう」
「そうだが、ただ殿下の命令で強制的に結婚したというのは……いや、君に言わせれば受け入れるべきことなんだろうが、公爵家の娘としても具合が悪かろう。後からでもちゃんと、夫の側が妻に恋焦がれて求婚した、という格好が良いかと思ったんだが」
「な、なるほど。筋は、通っていますわね。お気遣い、感謝しますわ」
私はそれでたいへんに納得した。
周りに力も示せるし、余所の女を娶るにしたって、ランキエールの伝統に則ったのであれば領民も受け入れやすかろう。
「……というわけで、ヴィヴィエンヌ=ドルナク嬢よ」
トリスタンはわざと、会場に響くような大きな声で言って、私の前に跪いた。
会場の目が一気に集まる。そして彼は、真剣な眼差しで言う。
「俺は君を愛している。故に、俺の妻になってほしい」
そうして私に、恭しく麦束が差し出された。
……これは、儀礼である。
儀礼だと、今、トリスタンは説明してくれたはずだ。私の面子を立てるための。
しかし、それにしてはトリスタンはあまりに真摯に私の目を見ていた。
心なしか少し緊張の色もあるようにも見える。これではまるで一世一代の、観客も固唾をのむほどの、混じりっけのない本心からの求婚のようではないか。
「し、しし、仕方ありませんわね。う、受けてあげても──」
私もそれに応じて緊張しただなんてことはまったくなくて、声も震えておらずあくまで流暢に、あくまでかる~く、あくまで平然と、さっき渡したものを単に返されたのと変わらないように、麦束を受け取る。
「──よくってよ?」
そして、毅然と答えきった。
「……なぜ麦束で顔を隠す?」
「か、隠してなどおりませんわ? ああ、ちょっとこの麦束、茎が長いかもしれませんわね? 実りを誇示したいがあまり、ちょっと無駄が多いんじゃあないかしら」
「減らず口を」
次の瞬間、自分の体がふっと軽くなったような感触がした。
なんと私は、トリスタンに横抱きにされていた。
「うおっ、君は、軽いな」
「なんですのいきなり!?」
「武闘で嫁にされた者は、家まで横抱きにされて連れ帰られるんだよ」
「な、なんて野蛮な!」
会場は大きな大きな拍手に包まれていた。
そしてトリスタンの言う通り私は抱きかかえられたまま、屋敷まで歩いて帰られてしまった。
道中の領民たちが笑顔で見つめてくるので仕方なくなって……いや、そうではなく。
ただ暑かったから、私は麦束でずっと太陽を隠していた。




