第16話 侍女頭ロゼット③
カイルが嫁取り武闘の予選を勝ち抜いてしまったその晩に、私はなぜか眠ることができませんでした。
近頃、歳を意識するようになってから、寝る前にベッドの上でぐるぐると考える時間が増えました。へとへとな日でもです。しかも今日はただの観覧の日でしたから、体力自体は有り余っていて、気だけが疲れています。
そうなると、水の流るるが如く低い方へ低い方へ、過去のことを考えてしまいます。特に恥をかいたときとか、意地を張ってしまったときとか。
ああもう、年甲斐もなく、変なことばかり思い出すのです。
あれは確か、十歳だとか、そのくらいのとき。
いじめっ子の男子たち五人を返り討ちにして泣かせた挙句もらい泣きし、そのまま泣きながら屋敷に帰るわけにもいかず、農場で時間を潰そうとしていたときのことです。
──おめぇ、あいつらにやられたんか?
溝のそばで三角座りをしながら空に泣いていると、木桶片手にカイルがそう話しかけてきました。
──うえぇぇ……ぐっす。ぼこぼこにしましたぁ、けど……うわぁん。
──ん? なら、なんで泣いてんだ。
──私にぃ、殴られる、男子が、うぇ、ぐす。可哀想でぇ……うわぁん。
──おめぇ、とんでもねぇ女だな。
私もカイルも、生まれてからずっと同年代で一番背が高かったものですから、当時からちょっとした仲間意識というものがありました。
しかし、どうにもお互い気が強いのか弱いのか、踏み込まないのが暗黙の了解というか。特にカイルは、妙に寡黙なひねくれもので、ふるまいは粗暴なくせに、絶対に戦いの類はしないという頑固な線引きをしていました。狩りも魔獣や害獣の駆除も、極力くくり罠だけを使って、なんなら遠くへ逃がしてしまうことの方が多かったです。
一度だけ私は、もう少し歳をとったとき──お互い職業を決めるような年頃にです──に、それとなく、聞いたことがありました。
──カイルは、なんで戦士にならないのですか?
──己には戦う理由がねえからなぁ。
そのときに見えたのが、人に物を語らない彼の信念の片鱗だったといいますか。
彼は荒っぽい男でしたが、ふるまいに似合わず、心根の優しいやつでもありました。
叶うならもっと深く話したい気もしていました。けれど、お互い修行の期間が終わってきちんと働くようになれば、そもそもが近所のよしみ以外何もなかった関係、同じ目線で見かけあうことは多々あれど、話すようなことも減っていきました。
そして、翌日の嫁取り武闘の決勝。
一日目の勝者であるトリスタン様と、二日目の勝者であるカイルが、正面からやりあっていました。
二人の張り手がぶつかりあって、地鳴りのように会場が揺れます。歓声も上がります。人々はもう、突然に実現したこの最高峰の戦いに熱狂しているようですらありました。
歓声の多くは主にカイルに送られていました。
トリスタン様とやりあっている、という時点でもう、領民からすればとんでもないことです。ランキエールの戦士たちの中にあって、トリスタン様は桁違いでした。あのお方はもう体格がどうなどという次元にいません。
そのお方に、あの農場のデカいよくわからない奴が本気で挑んだら、なんとちゃんとした戦いになって、あまつさえ接戦を演じている。
観衆の熱狂も興奮もわかるのです。けれど、私の頭の中はやはりぐるぐるします。
あのカイルが、これほどまでの力を振るおうともしなかった彼が、どうして突然、戦おうなどと思ったのか。
いえ、これは嫁取り武闘なのですから理由は明白です。
彼が見出した戦う理由は、女なのです。それはもう決まっています。
ああ、ぐるぐるします。飛躍に飛躍が重なります。たとえば──
──あの農場で、カイルは奥様に何か相談をしていたんじゃないでしょうか?
……いつの間に。
いつの間に!
あのカイルに、そんな相手ができていたのです。
トリスタン様とカイルはまさに一進一退。
押し出すべき円までの距離を、互いに振り子のように行き交い、どこかで力の均衡が崩れたら、あるいは片方が、ふっ、と受け流すことに成功すれば終わってしまうようなギリギリの戦いです。
もし、仮に。
──もし仮に、カイルが何かの拍子に勝ってしまったら。
私はその戦いを、ついには見ていられなくなって、部下に奥様を任せ、会場を出てしまいました。
▽▽▽
いつぞやのように私は三角座りで、今度は誰にも見つからぬよう、岩陰でしょぼくれていました。
もう決着はついたのでしょうか。
カイルは、勝ったのでしょうか。
もしも勝ってしまったら、今頃、私が悟ることができないくらいひっそりと育まれた愛を、どこの誰とも知れぬ若い娘相手にプレゼントしているのでしょうか。
想像するだけで胸の底から靄が渦巻きました。
先ほどからぐるぐるとしているものは、靄です。晴れぬ気持ちです。
きっと、嫉妬、などとも言います。
ち、違うのです。
私はただただ、昔馴染みの独身仲間がいなくなるかもしれないのが嫌なのです。
なんにせよ、そんな理由で三十歳が見えてきた巨女が一人でいじけているなど、我ながら滑稽で仕方がありません。けれど止められないのです。なんだか心が少女の頃に戻ってしまったようで、ふるまいがとてもとても、自分で客観視したくもないくらい幼稚に返っています。
でも、と思い直します。
私はランキエール家の侍女頭ロゼット。奥様にもっとも信頼されるべき側近。
そろそろいい加減、奥様のところに戻らねばなりません。
意を決して、岩の向こうの武闘の観覧に戻ろうと振り返りました。
「あら、ロゼット」
「ひゃあああ!!!」
大きな声が出ました。もう、歳に似合わぬなんて付けても言い訳にならないほどの甲高く情けない驚き声です。
振り返りざまに見えたのは、本来私が見守らねばならないはずの奥様でした。




