第13話 王子の決意②
春が終わり、冬小麦の収穫を経て、秋。
種まきの時期がきた。
今日は種まきにあたっての豊作祈願。ミレイユのもっとも大事な仕事のうちの一つだ。
王都の修道院は膨大な農地を所有しており、その一角に、祭祀用の麦を育てる麦畑がある。豊作祈願にあたっては、この周辺に農民や諸侯を集め、王家の人間を承認に、教会の代表者──今回は聖女ミレイユである──が神に豊穣の祈りを捧げるのである。
今年はミレイユが太陽の聖女の力を使えるのだから、それ相応に映えるよう、麦畑の隣に一日限りの神殿を建てた。
今日はまさに、王権と神権が融合した日の象徴だった。民の希望を一身に受けて輝くミレイユを彩るのに、金を出し渋るなどあり得ぬ話だ。
神殿の舞台の端、王族専用に誂えられた貴賓席にいるのは、俺と、王妃である母上の二名だけだった。
これは話が違うことだった。
「母上、陛下は来てくださらないのですか」
「……直前まで、迷っておられました」
「なら、どうして」
「もし仮に、今、何かの拍子にあなたと陛下が対立してしまうことが、どれほどこの国にとって致命的なことか、わかりますか?」
対立、と母は言った。
「それではまるで、俺が誰彼構わず喧嘩を吹っかけているようではないですか」
「そうは言っていないのです。しかし」
「しかし、なんです?」
「最近のあなたは、まだ王太子妃でもないあの聖女に肩入れをしすぎています」
また、その話だ。
嫁と姑の関係。
王子でも話に聞くくらい、低俗でしようもない揉め事。いざ目の当たりにすると辟易する。
「ミレイユとはすでに婚約を結んでいます。妃も同然だ」
「だからこそ今が大事でしょう。今こそが彼女が妃に相応しいことを示すもっとも大切な期間のはずです」
「それは弁えているつもりです。そのためにこうして豊穣の祈りに万全の準備をしたのであって」
「では今、陛下が聖女ミレイユに苦言を呈したときに、あなたは受け入れられるのですか?」
「……っ!」
「そのような状態で、陛下とあなたが会うのは危険です」
その断言に、俺は何も返すことができない。
母上はそれから、次のように呟いた。
「……雑穀の値上げの影響が、出てきています」
今度はその話だ。
もはや王太子派と国王派に分かれてしまった俺と母上は、もう催し事のときにしか、話すことができない。
だからこのように、次から次へとお小言が溢れてくる。
「その影響は他作物にもじわじわと波及してきています。家畜の飼料に金がかかるようになったせいで肉の値段が上がり、代替穀物の不足はそのまま小麦の需要の増加にも転化されました」
「……何が言いたいんです?」
「わかりませんか?」
俺はそのとき、不思議に直感してしまった。
それは、ずっと俺の心にのしかかり、母の影、そして、あらゆる理屈じみたものの裏に垣間見えてしまう、呪いのようなものだった。
「──あの女なら、わかると言いたいんですか?」
そう言ったとき、母上はわざとらしく眉間に皺を寄せた。
「……なぜそこでヴィヴィエンヌが出てくるのです?」
「白々しい! やはりミレイユにケチをつけるのはそういうことですか!」
「アドリアン。あなた、まさか、昔から」
「その名を口にするな!」
俺が声を荒げると同時に、母上は立ち上がっていた。
「よく聞きなさい。アドリアン」
そして座る俺の両肩に腕を置いて、真剣な眼差しで言う。
「支配者であるならば、己を上回る傑物に出会うことなどいくらでもあります。ですが王とは、己の無力感も、傑物も、すべてを包含してこそなのです。個人の出来不出来など国の前では些事に過ぎない。支配者とは、そのような視点を持たねばならない」
ああ、この人はまた、何かを言っている。
実につまらないお小言だ。こんな話、なんの解決にもならない。
これ以上は話しても仕方ない。
「あなたにもいつか納得できる時が来る。だから──」
「あの罪人を庇う者と、話すことなどありません」
俺はそれで、話を切った。
◇◇◇
祈りが始まる。
石造りの神殿のステージの上に魔法陣が描かれている。
その中央に、ミレイユがゆっくりと歩いていく。
彼女は、ともすれば「あられもない」と言われるような、裸に大判のストールを巻いただけの装いで、一目には彼女が持つ美しい体の曲線が、艶やかな女の魔力として目を引いてしまう。しかしそれは、彼女が歩むたびに、視線を超越して跳ね除けるほどの神々しさを有するようになる。
そうして結晶した彼女の神聖さは、艶やかな女性のそれを超えて、圧倒的な純白さ、それはまるで赤子がそのまま手足を伸ばしたような、そういう領域にまでたどり着いていた。
ミレイユは麦畑に向かい、魔法陣の中央で膝を突く。
そして歌うように、詩編の一説を唱え始めた。
──主は地に臨みて、彼の地は豊かさに満ちる。
そう唱えた彼女の頭上に、もう晴れているのに、さらにもう一段晴れるような、神々しい光が差した。
──天の河は水に満ち、地に注がれ、麦を与えられる。
──主は田畑を大いに潤し、畝をならし、白雨で耕し、その萌芽るを祝福される。
──主の恵みは豊穣をもたらし、主の通る道には豊かさが滴る。
その詩編を元に絵画を描くのなら、きっとこんな風だろうと思う。
天から注がれた光が、柱のように立ち、麦畑と、ミレイユに降り注ぐ。
土に注がれた光は小さな結晶を乱反射し、まるで宝石が埋まっているかのようだ。
それを見るだけで心が満たされていく。今年は豊作に違いないという確認が持てる。
今日は敢えて、前回から少し期間を置いた祈祷だった。
王太子派の諸侯、そしてその領民たちは目を輝かせて手を合わせ、光を浴び、世界の真実を見たかのようにミレイユを拝んでいた。
祈祷が終わると、ミレイユはすんと立ち上がって、一礼した。
拍手。まさしく万雷の拍手である。それを受けたミレイユは照れて、予定した手順も忘れて、裸足でたっ、たっ、たっ、とこちらに駆け寄ってくる。
艶やかな聖女から、赤子のような神聖さへ。そして今度は、子供のような無邪気さへ。
まったく彼女には、飽きる事がない。
ミレイユは俺の隣の母上を一瞥すると、
「あら、いたのね、お義母さま」
と言い放った。
母上はため息をこらえ、俺は苦笑する。
それから、ミレイユの話からは離れて、先ほどの話の答えのつもりで、母上に呟く。
「小麦の需要が増えたのなら、その分収量を上げればいい話でしょう。むしろ貧乏人たちの食料の程度が上がるのだから、好ましいことではありませんか」
麦畑に感謝する民たちを横目で見遣る。
──こんなにも感激している民たちが、農耕に励まないなんてことがあろうか?
だが母上は答えなかった。
やはり、俺たちは、王太子派と、国王派の別々の人間になってしまったのだ、と心の底から痛感する。
無邪気なミレイユが俺に抱き着く。俺は彼女の頭を優しく撫でる。
派閥を王太子派、などと冠することの意味。
そしてそれは回りまわって、当の母上が、俺に対して、ミレイユを妃として迎え入れる覚悟があると言ったことにも繋がる。
ミレイユのこの弾けるような笑顔を守れるのは、俺しかいないのだ。




