129:眼
空間に千切れ掛けた蜘蛛の巣のような大雑把な網を創り上げる。
細かな網目を作成したいところだが、力を固めるだけでも苦心している私にはこれが精一杯だ。
目が歪なのは、私の不器用さが原因では無いと思いたい。
横に座る少年が部屋を縦横無尽に走る慣れない光の感覚に居心地の悪そうな顔をしている。
「あのう」
「何でしょうシリル」
隣から伺うように声を掛けられ、力を目一杯を張り巡らせながらもにこやかに微笑み返す。
優しい気持ちで返したはずなのに、予想外に喉奥から低い声が出た。
きっと力を広げるのに意識を向けすぎた為に違いない。私は断じて不機嫌ではない。
「な、何でもありません」
シリルから脅えたように身体を引かれ、ちょっと傷つく。
扉から少し離れた円状の範囲――半径十メートルほど広げただろうか。その辺りで私が伸ばした力が限界だと悲鳴を上げた。
軟弱な。苛立ちで波立つ思考が己の未熟に舌打ちする。
現在糸状に絡み合わせた力だが、慣れれば光のまま使う事も出来るだろう。
そちらの方があぶり出しやすそうだが、慣れていない今は網目状に広げる事で我慢する。
ソファに腰掛け力を伸ばしただけなのに、肌が少しちりちりする。
ウィルが言う通り、感覚的に私が敵と認識出来る何かが居るらしい。
気持ちを整える為、冷め切った紅茶に手を伸ばし一口啜る。
ぬるい。
違和感を肌で感じる事は出来たが、このままでは害意を視界に収められない。
どうすれば、と悩むのは後回しにして口元にカップを寄せたまま、心に囁かれるまま力を端を引っ張り揺らしていく。
心だけでなく思考の片隅からも揺らせとの指令を受けた気がするので、逆らわず動かしながら延びた糸を眺める。
本数は数え切れていないが、数十はありそうな力の糸は動かし易いように腕から伸ばしたものが多い。
手首の色が燐光で変化して見えるほど密集した糸は、客観的に観察すれば透明な蜘蛛が私を拘束しているかのようにも見える。
身体から伸ばした力の網は悪魔の存在を絡み取る事は出来るが、糸そのものの力は多くない。
無駄に力を放出させないよう、力を伝わせる媒体として糸の形状を選んだだけだ。
隣に座ったシリルは薄く広がった力に戸惑ったような顔をしていた。
じわりと伝わせた力が糸の上を滑り、細かな光を散らす。
ソーサーに飲みかけの紅茶の入った白磁の器を載せ、束ねた糸に全力を注ぎたい誘惑に駆られながらもバラバラに力を流し込み小刻みに力糸を揺すっていく。
指先を時折微細に動かすが、力の行使で身体を移動させる必要はない。
表面上私はその間も悠然と座ったままだ。
伸ばした糸に流し込む力の濃度を不規則に上下させていると、手首から延びた糸が一瞬ぎこちない動きになり微かな違和感が背筋を撫でた。
羽虫が羽を震わせるような甲高い音が部屋中に数拍響く。
「う、あれ」
空気から伝わる異音にシリルが眉を寄せ、不快そうに耳を軽く覆った。
耳の中で跳ね回る音は、鼓膜の奥に虫が潜り込んだような気持ち悪さがある。
ウィルの耳にも微かな音が入ったのか、不審の混じった視線を左右に彷徨わせた。
「……掛かった」
二人の様子を眺め、静かにソファから滑り降りる。
力糸から伝わる手応えは浅いかったが、背を滑った違和感は獲物を捉えた事を告げている。
見えない敵の一本釣りに成功し、布の下で不敵な笑みを漏らす。
「え?」
隣に座っていたシリルは私の言葉よりも、力糸の流れが止まった事にハッと顔を上げ、マントを払う私を戸惑い混じりに見つめた。
「監視、表に確かにいるようです。シリル」
「は、はい!」
マントの皺が伸びた事を確認し、ゆったりと一歩踏み出すと慌てて立ち上がった少年が、私の声を合図に扉の外に飛び出した。
後ろから話掛けられる前に扉から抜け出て違和感の感じた方向に視線を流す。
「…………!」
先に廊下に出たシリルが声にならない悲鳴を飲み、立ち竦むのが見えた。背後で扉が閉まる硬質な音が響く。
力糸に違和感を感じた方向と硬直した彼の視線を合わせて辿っていくと、気配の元はすぐに見つかった。
薄い闇を纏った、一見したところはインプの変化系にも見える悪魔が、首を右側に捻るだけで目視出来るほど近くに浮かんでいた。
一抱えほどの小柄な、ひょろ長い胴体の悪魔が細い腕で膝を抱えて丸まっている。
そこだけ抜き出せば何時も通りの黒い悪魔だが、特筆すべきは奴の頭部だ。
インプに貼り付いていた濁った黄色い双眸はなく、のっぺりとした漆黒の顔面には縦に裂いたかのような亀裂が走っている。
何かを観察している様子はないが薄く開いた隙間から、白目が覗いている。
顔面には目以外のものは何もなく、瞳を体現したような悪魔がそこにいた。
「なるほど、これはまた」
――見事な監視で。ぴくりと悪魔の分厚い瞼が痙攣し、舌先までのぼり掛けた悪態を寸での所で飲み込む。
『先程妙な音がしたが、どうかしたのか?』
怪訝そうなウィルの声と、席を立ったらしき僅かな物音が聞こえる。
『何かあったのか』
声が近づくにつれ、扉の側に漂う悪魔の目元が細かく震えはじめる。
扉のノブを掴む鈍い音に、ゆっくりと縦に長く伸びた瞳が微かに開き、気怠げに瞬いた。
悪魔が緩慢な動きで腕を解くと、曲げた足に隠れていた二つの瞳が虚ろに開かれる。
頭部よりも小さめだが、胸部と腹部をなぞるよう縦に切れ目が入っている。
意識がおぼついていないのか薄く開かれた瞳の焦点は合っていない。
う、頭だけじゃなかったか! なんて悪趣味な。
「ウィル! そこから出てこないで下さい」
先程からウィルが側に寄る度に反応し、瞳が開きそうになっている。
扉の側に浮かんでいた事も合わせて考えると、この悪魔はウィルを監視する為に置かれているんだろう。
『あ、ああ。分かった』
語調を強めた私の勢いに押されたか、扉の向こうからぎこちない返答。
強く押しとどめた理由は監視対象がのこのこ姿を現すなんて肉食獣の前に餌を置くような物、だと言うのもあるが、単純に悪魔の姿を見せたくないのもある。
私のあぶり出しにより、監視悪魔は鈍感な貴族でも目視出来るほど表面に出ている。
これがインプ程度だったら素直に見せられたのかも知れないが、普通のインプや下級悪魔でさえ醜悪な外見なのに、この監視悪魔ときたら顔面に縦長の瞳を埋め込んだだけでは飽きたらず胸部と腹部にも不気味な眼をくっつけている。
悪魔の制作――否、改造者は常人から数段斜めにかっ飛ばしたセンスを持ち合わせて居るんだろう。踏み潰された蛙の方がまだマシとも思える程にグロテスクな容貌である。
慣れている人間ですら吐き気を催しそうな代物を悪魔に馴染みのない人間に見せるのは酷だろう。
更に言うならこんな不気味な悪魔に毎日観察されていたなんて、並の人間が知ったなら卒倒ものだ。
ウィルは並では無さそうなので卒倒はしないだろうけれど、良い気分にはならないはずだ。
「シリル、封印札は持ってますよね」
「あ、はい。部屋でインプを封じる時に渡されたものはあります」
問いかけると素直に頷いて、懐から数枚の紙を取り出した。
思い出したように返そうとしてくるのを掌を突き出す事で留める。
「後で残りも渡しますが、封印札は貴方が持って下さい」
「え、でも」
「私には必要のないものです。ですから、今回もお願いします」
触れただけで弾き散らす私が持っていても意味がない。封印札はシリルに渡すつもりでオーブリー神父に貰っていた。
戸惑う彼に微笑んで、虚ろな眼差しを彷徨わせる悪魔を見やる。
「……わ、分かりました」
視線の意味に気が付いたシリルの瞳に迷いが混じるが、決意を固めるようにぎゅっと胸元に札を寄せ、頷いた。
インプでの荒療治が効いたのか、手を震わせることなく封印札を宙に浮かぶ悪魔に貼り付ける。
固まった悪魔を見据え、そのまま念を込めようと――
「あ、あれっ!?」
したところで、ひゅっと掠れた音を鳴らして悪魔の姿がぐにゃりと歪み、渦を巻いて空気ごと札に吸い込まれた。
悪魔を吸った札は、墨を落とされたように黒く染まると錐揉み状に回転しながら重さを感じさせない動きで舞い落ちる。
あまりに呆気ない幕切れに、封印の態勢に入っていたシリルは構えも解けず凍り付く。
音もなく落ちた札を床から取り上げると、一瞬ぴくりと紙が跳ねたがその後は黙したままだ。
オーブリー神父の封印は何度か見たが、封印札が黒く染まった事はなかった。
気配はほとんど掻き消えているので封印は成功したのだろうが、吸い込まれた悪魔は封印札に繊維状に同化してしまったのか、触った程度では消滅しない。
「どうやら監視用に力を注ぎすぎて防衛能力はインプ以下になっているみたいですね」
ぴらぴらと揺らしても黒い紙のまま。さっきの動きが最後の足掻きだったようだ。
「そんな。いえ、簡単な方が良いんですけれど。折角決めた覚悟が」
氷結から何とか立ち直ったシリルが、悲愴な顔で封印札を眺める。
「まあまあ」
決然とした思いを嘲笑うかのような悪魔の軽い散りざまに、落ち込む彼の頭をよしよしと撫でてあげる。
振り払われはしなかったが、赤くなった顔で「子供じゃないです」とむくれられた。難しい年頃である。




