24話 人形は哀しい涙を流す
妃那は圭介の胸で泣き続けていた。
その間、圭介はどうすることもできず、ただ彼女の頭を撫でているだけだった。
どれくらいそうしていたのか、不意に泣き声がやんで、部屋がしんと静まり返った。
「大丈夫か……?」
妃那はコクリとうなずいて圭介から離れると、脱いだ着物を無言のまま引き寄せた。
「ごめんなさい。あなたにも謝っておくわ」
うつむいたまま紡ぐ妃那の言葉は、同じ年頃の少女と何ら変わりはない。
話ができないどころか、心の成長が止まっているというのも、偽りだったらしい。
ただ、その話し方は一本調子で、ロボットが話しているようにも聞こえる。
「なんで……?」
妃那が謝る理由もさることながら、聞きたいことはたくさんあった。
しかし、彼女は黙ったままヒラリとベッドを下りると、窓際に行って掃き出し窓を開いた。
夜の風が吹き込んで、カーテンをふわりと舞い上がらせる。
「圭介、知っている? お兄様はここから飛び降りたのよ。わたしの目の前で」
妃那はバルコニーに立ち、泣きはらした顔で圭介を振り返った。
その口元には艶然とした笑みが浮かんでいる。
「それは聞いたけど……」
妃那の目の前で飛び降りた、とは聞いていなかった。
圭介は重い身体を起こし、痛む足を引きずりながら、ゆっくりと妃那のところまで歩いていった。
彼女はまるで逃げるように手すりの上に身軽に飛び乗る。
「お、おい! 何やってんだ!?」
圭介の声が聞こえないのか、妃那は手すりの上にバランスよく立っていた。
赤い着物が風にはためいて、蝶がひらひらと羽ばたいているようだ。
ほっそりとした体躯は、あとほんの少し強い風が吹いただけでグラリと揺れ、夜の闇に落ちていってもおかしくない。
その可能性に、圭介の身体が震えた。
「妃那、そんなところに立ったら、危ないだろ! とっとと降りて来い!」
「お兄様がね、ここに立って言ったのよ」
「な、何を?」
「『妃那、約束だよ。おまえは永遠に僕の人形。誰も愛さず、誰からも愛されず、この神泉の血が絶えるのを僕の代わりに見届けてくれ』と」
「葵が……?」
「わたしは約束した。お兄様は満足そうに笑って、ここから姿を消したの」
「妃那、それって……」
圭介は葵を知らない。
しかし、今の妃那の言葉で気づいてしまった。
妃那を『人形』にしたのは、まぎれもなく葵だったのだと――。
葵は何もわからない幼女に言葉を禁じ、人形のようにふるまうように言い聞かせてきた。
この家に縛り付け、誰の目にも触れさせず、自分のそばに置き続けた。
そして、死ぬ間際でさえ、『約束』という名の『呪縛』を妃那にかけ、彼女の人格も人生もすべて奪った。
その理由はどこにあったのだろうか。
ただ単に、妹を溺愛していたからか。
圭介は考えれば考えるほど、気分が悪くなって、吐き気すらもよおしてくるのを感じた。
「圭介、あなたが存在していると、お兄様との約束が守れない。わたしは血を残してしまう。だから、消そうと思ったのよ」
「鉢植えを落としたのも、階段から突き落としたのも、おまえの仕業か」
「それに、首も絞めたわ」
「いつ?」と聞こうとして、それがついさっきのことなのだと気づいた。
圭介の上に馬乗りになっていた妃那は、圭介の首を絞めようとしていたのだろう。
しかし、首を絞めている途中で、突然キスをされては、さすがの妃那も驚いて、とどめを刺すことができなかったのかもしれない。
圭介は間一髪とはいえ、桜子の夢に助けられたのだ。
「いくら兄貴の遺言とはいえ、おまえは心から従えないってことだろ? だから、おまえにおれは殺せなかったんだ」
兄に謝りながら泣いていた妃那を見たら、すぐにわかることだ。
どれだけ兄に従順であっても、人間として間違ったことをすることまではできない。
妃那にはそれだけの良心がある。
「おかげで気づいたわ。お兄様の約束をもっと簡単に守る方法」
妃那の浮かべた笑みがどこか儚く見えて、圭介は嫌な予感に足を引きずりながらも、バルコニーに向かって急いだ。
「この神泉で一番血が濃いのはわたし。わたしさえいなければ、血は薄まるだけ。脈々とつながれた血筋もいずれ絶える。
それに何より、わたしは永遠にお兄様の人形でいられる。お兄様も本当はそれを望んでいたのよ。自分の後を追ってきてほしいって」
「妃那、早まるな! こっちへ来い!」
足の痛みなど気にしている場合ではない。
妃那を捕まえて、無理やりにでも引きずり下ろさなくては、彼女も葵と同じ道をたどってしまう。
「圭介、あなたはバカがつくくらいお人よしね。自分を殺そうとしている相手にやさしくしたりして。
でも、うれしかったわ。お兄様が死んでから、あんな風に声をかけてくれる人はいなかったから。ありがとう」
「礼なんて必要ねえ! そんなの当然のことだろ! おまえはおれのイトコだ! 血のつながった家族だろうが!
これからだって、いくらでもやさしくしてやる。いなくなった兄貴の代わりになってやる。だから、おれの方へ飛べ!」
圭介は必死の思いで、今にも後ろに倒れていきそうな妃那に手を伸ばした。
妃那が生と死の狭間で、一瞬ためらったのがわかる。
そのためらいを逃さずに、圭介は妃那の手を掴み、自分の方へ引き寄せた。
バランスを崩した妃那が圭介の上に降ってくる。
圭介は倒れながらも妃那を抱きとめ、床に転がったままその身体をぎゅっと抱きしめた。
「……どうして!?」
妃那の涙声を聞きながら、圭介は何度も深呼吸し、先程までの恐怖と緊張をなんとか緩めた。
「まったく、葵はひどい奴だな……」
「違うわ! お兄様はわたしを誰よりも愛してくれた。わたしも誰よりも愛していた!」
「愛にはいろんな形があると思うけど、少なくともおまえのことを本当に愛していたら、こんな風に苦しめたりしない。おまえの人格を奪ったり、人形でいることを強いたりしない。
おまえのありのままを愛せないのなら、それは愛なんかじゃない」
「それでも、お兄様はわたしのたった一人のお兄様で、とても大切だった! 大好きだったの……!」
妃那の血を吐くような叫びに、圭介は「うん」と小さくうなずいた。
忘れかけていた足の痛みがよみがえってきて、圭介はそのまま気を失ったのか、眠ってしまったのか、その後の記憶がなかった。
次話はこの翌日の話になります。
妃那はどうなったのか。急展開です。




