23話 夢と現実、どっち?
遠い意識の向こうで、なんだか騒がしいような気がする。
それが夢なのか現実なのか、圭介には判別がつかなかった。
「私、もう黙っているわけにはいきません。このままだと、圭介様が葵様に呪い殺されてしまいます!」
雪乃の泣いているような声が聞こえる。
「雪乃、なに、バカなこと言ってるのよ? 呪いなんてあるわけないでしょ?」
そう答えているのは母親だ。
「けれど、こうも立て続けに圭介様の身に何かがあるということは――」
「このバカが真夜中になんでフラフラしてたかは知らないけど、大方寝ぼけて階段を踏み外しただけのことでしょ」
(それは違う!)
圭介は叫びたかったが、声が出なかった。
今ならわかる。あの桜子からの呼び出し状は偽物だった。
誰かが桜子の名を騙って、圭介を部屋の外におびき出し、階段から突き落として殺そうとしたのだ。
背中を押された時の手の感触はまだ残っている。
あれは幽霊でもなんでもなく、生きている人間の手だった。
「鉢植えの件にしたって……」
「そんなの、圭介が後継者になるのが気に入らない誰かの仕業に決まってるでしょ! あたしが吐かせてやるわよ!」
「百合子様……!」
母親の怒鳴り声とともに、雪乃の追いかける足音、そして、ドアが閉まる音がして、部屋の中はしんと静まり返った。
それからまた、どれくらい経つのか。
時間の流れが判然としない。
「圭介」
自分を呼ぶ桜子の声が耳元で聞こえた。
会いたかった桜子が、すぐそばにいる。
(また会いに来てくれたのか……?)
「ごめんなさい」
(え、『ごめん』って何!? 桜子のせいでこんなことになったって思われてる? それとも、まさか……やっぱり付き合うのをやめようとか、そういう話じゃないよな!?)
無我夢中で手を伸ばすと、桜子の長い髪に触れた。
その根元にある細い首筋に手が届いたと同時に、一気に自分に引き寄せる。
思ったより桜子の身体は簡単に倒れ込んできて、そのままの勢いで唇が重なった。
(嫌がらないってことは、大丈夫ってことだよな? ……うん? 一応、初めてのキスだぞ? ここまでしていいのか?)
頭の片隅にそんな疑問がよぎるが、やわらかな唇と絡みつく舌の感触で考えることを放棄してしまう。
(あ、これは夢だな。思春期の男ならありがちな夢ってやつで……)
せっかくならと、息をするのも忘れて深く口づけた――が、妙にリアルな感覚がある。
(おれ、こんなキス、したことなかったはずだけど?)
ゆっくりと目を開いて目の前にいるはずの桜子を見た瞬間、息が止まるかと思った。
「お、お、おまえ……!」
どうも身体が重いと思っていたが、圭介の上に妃那が馬乗りになっていた。
最初に見た時と同様、妃那は赤い着物をみだらにまとい、長い黒髪を圭介の胸の上に落としていた。
人形のように表情のない瞳を圭介に向けている。
「わ、悪い。寝ぼけて人違いして……」
慌てて弁解したが、妃那は無表情のままに圭介を眺めている。やおら動いたかと思うと、圭介の股間に手を当てた。
寝起きはマズい。
「ちょ、どこを触って……!?」
逃げようにも妃那が乗っているので、身体が思うように動かない。
半ば恐慌状態に陥る圭介の目の前で、妃那は腰帯をするりと抜いた。
身体にかろうじて引っかかっていた着物を落とすと、全裸のまま圭介の隣に寝転がる。
さすがに自分と年の近い少女の身体をまじまじと見るほどの勇気はない。
一瞬にして目をそらしたものの、頭の中はさらにパニックになっていた。
(この状況をどうやって理解すればいいんだ!?)
妃那が自分の上から降りてくれたおかげで、とにかく身軽にはなれた。
(と、とにかく、このままベッドにいるのはヤバいだろ!)
圭介は慌ててベッドを飛び降りた――が、床に足を付けた瞬間、右足首に激痛が走り、「いってえ……!」とうめきながら、その場にしゃがみ込んだ。
自分の右足を見れば、いつの間にか包帯が厚く巻かれ、固定されている。
どうやら階段から落ちた時に捻挫でもしたらしい。
目に涙を浮かべながら痛みが治まるのを待ち、それから改めてベッドの上の妃那の顔を見た。
彼女は目を大きく見開いたまま、圭介を誘うように手を伸ばしている。
そして、まるで『キスをして』とでも言うように、ゆっくり目を閉じた。
「……もしかして、ジイさんに何か言われてきたのか?」
足の痛みが、夢と現実の間をさまよっていた圭介の頭を目覚めさせてくれた。
あの源蔵なら、妃那に圭介が婚約者だと言ってここへ来させ、既成事実を作らせることくらいはするかもしれない。
妃那は待ちくたびれたのか、再び目を開き、不思議そうな顔で圭介の顔を眺めている。
(……て、こいつにいろいろ聞いたところで、返事があるわけじゃないんだよな)
圭介は右足をかばいながら身体を起こすと、裸のままの妃那の身体に掛け布団をかけてやり、ベッドに腰を下ろした。
「改めて、ごめん。謝る。けど、ジイさんに何か言われたからって、こんなことするな。
いくら成長が止まってたとしても、人形じゃないんだから、心はあるだろ? もっと自分を大事にしろよ」
見た目が同い年、中身は3歳児。
頭でわかっていても、その違和感にどうやって言葉をかけていいものか、正直よくわからない。
しかも、相手が言葉を発するわけでもない。
圭介はそれ以上何も言えず、ベッドに転がる妃那の頭を撫でた。
髪を伝わって、頭のぬくもりが手のひらに感じられる。
人形のようでも、やはり生きている人間なのだ。
葵が生きている頃は、笑ったりもしていたという。
たった一人、やさしくしてくれた兄を失って、心のよりどころもまた失ってしまったのだろう。
そこから立ち直って、せめて感情を表に出せるようになればいいのにと思わずにはいられなかった。
「大事な人を失うのはつらいよな。どうやったら、おまえは元気になるんだろうな」
頭を撫でられるがままになっている妃那を眺めて、圭介は小さく息をついた。
ふと気づくと、妃那の大きく見開かれた瞳から涙がしたたり落ちている。
「妃那? 悪い、変なこと言って。兄貴のことを思い出しちまったか?」
妃那の初めて見せた感情ともいえるものが、ただ悲しいものでしかなく、声もなく泣き続ける彼女を見て、やりきれない思いだった。
圭介はただ妃那の頭を撫でながら、泣き止むのを待つしかなかった。
「……もう限界だわ。お兄様、ごめんなさい……」
突然、聞こえた少女の声に、圭介は耳を疑った。
この部屋に他には誰もいないのは確かだ。
まさかと思って、妃那の頭から手をどけると、その手にすがるように彼女は起き上がって、圭介の胸に飛び込んでくる。
「妃那……?」
驚く圭介の胸で、妃那はわんわんと泣いた。
声を上げて、子供のように。
そして、「お兄様、ごめんなさい」と、何度も繰り返していた。
(ちょーっと待て! 妃那って、話ができないんじゃなかったのか!?)
圭介は混乱する頭を抱えて、泣きじゃくる妃那の頭を呆然と見下ろしていた。
妃那がしゃべったところで、次話から事件の顛末がわかる第3章終盤に入っていきます。




