侯爵令息の焦燥。
お陰様で本日、三巻が発売になります。
ありがとうございます!
※ゲオルク・ツー・アイゲル視点です。
「駄目だ。どこにもいない」
最後に部屋に戻ってきた船員は、肩で息をしながら言った。彼の険しい顔付きに引き摺られるように、室内にいた人間の表情も強張る。
館の中は全て探した。庭も、街の中も手分けをして探したが、どこにもマリー様の姿はなかった。
湧き上がる焦燥に、唇を噛み締める。見上げた窓の外は、既に夜の帳が下りていた。
こんな暗闇の中、どれだけ不安な思いをされているのだろう。
恐ろしくはないか。寒くはないか。辛い思いはしていないか。
そう考えるだけで、居ても立ってもいられなくなる。
「マリーちゃん……いったい、どこに」
不安が滲む声で呟いたのは、ミハイルの姉君、ビアンカ嬢だ。
顔色の悪い彼女の背に腕を回し、ミハイルは支えるように隣に立つ。
「姉さん、しっかりして」
「だって、ミハイル。マリーちゃんは私達に心配かけて平気な子じゃないわ。きっと何かあったのよ」
「そうだな……。嬢ちゃんが悪戯でこんな事をするとは思えない。想定外の事に巻き込まれたか……誰かに攫われたと考えるべきだ。なぁ、貴族の兄ちゃん。やっぱり救援要請を出した方がいいんじゃないか?」
船員……確かパウルという名だったか。彼の提案に、僕――ゲオルク・ツー・アイゲルは沈黙した。
皆の言う通り、マリー様が自分の意志でいなくなったとは、考え難い。なんらかの事件に巻き込まれたか、誰かに攫われた可能性が高いだろう。
だが、そこで問題が一つ。一体、誰に攫われた?
「マリー様についていた男性も、見つかりませんか」
「……あぁ」
パウル殿は、苦い顔で頷く。ビアンカ嬢や他の船員達も複雑な表情を浮かべている。
マリー様に付き添っていた筈の男性、ヴォルフという人物は、皆の信頼を得ていたらしい。
「王女殿下の捜索となれば、かなりの大事になります。いなくなった状況を説明すれば、おそらくヴォルフという方は、王女誘拐の重要参考人として指名手配される事になると思われます」
「ヴォルフが犯人だなんて! そんな訳ないわ!」
「ですがマリー様がいなくなった時に傍にいたのは、彼だけ。しかも、彼自身も一緒にいなくなっているのですから、状況証拠としては充分かと」
「それは……」
ビアンカ嬢は返す言葉に詰まり、俯いた。
「室内に争った形跡はありませんでした。花瓶は落ちていましたが、あとは綺麗なままです。マリー様は気を失っていたのかもしれませんが、その男性が無抵抗で一緒に攫われたと考えるのは不自然過ぎる」
「……でも、あの兄さんは、嬢ちゃんの事をすげえ可愛がっていたんだぜ。あれが演技だったとは、オレには思えない」
「そうだな。まるで妹か娘みたいに可愛がっていた。あの男が彼女を傷付けるとは考え難い」
船員たちは口々に、ヴォルフという男性を庇う。
僕は、その事に苛立ちを覚える。じゃあ一体、誰がマリー様を攫ったのだ。言ってみろと吐き捨てたくなった。
「では、無関係だと。そう仰るのですか」
「…………」
僕の言葉に、皆は口を閉ざす。
重い沈黙が落ちた。
僕はヴォルフをよく知らないし、船上での日々も知らない。だから彼等の葛藤も理解出来ない。
だが、そんな僕だからこそ見えるものがある。
館にも街にも、大勢の人がいる。館に忍び込み、マリー様だけでなく大柄な男を攫うなんて事を、誰にも見つからずにやり遂げるのは不可能だ。
ヴォルフが攫った、もしくは、彼が犯人に協力したとしか考えられない。
それを感情論で却下など、出来るものか。否、させてたまるものか。
もし、その男がマリー様を攫ったのだとしたら、信頼を寄せて下さったマリー様を裏切った事になる。その所業を、絶対に僕は許せない。
「ゲオルク……」
気遣わしげな声とともに、肩を軽く叩かれた。
いつの間にか正面に立っていたミハイルが、眉を下げて僕を見ている。口下手な彼は言葉を探しあぐねていたが、心配されている事は分かった。
冷静さを欠いていたのは、船員達だけでなく、僕も同じだったらしい。
煮え滾るような苛立ちを逃がす為に、深く呼吸をする。冷えた空気を肺に取り込めば、少しだけ頭も冷えた気がした。
「王女様を心配しているのは、皆一緒だよ」
「ああ、悪かった」
苦笑を浮かべると、パウル殿は気まずげに頭を掻いた。
「すまなかったな。兄ちゃんは真剣に考えてくれたのに、感情だけで否定しちまった」
「いいえ、熱くなっていたのは僕も同じです。申し訳ありません」
ギクシャクはしているが、一触即発の空気は霧散する。
「一先ず、状況を整理しましょう。誰か地図を持っていますか? 地形が分かれば、殿下を攫った者が、どの方角に向かったのか、少しは絞れるかもしれない」
「ああ、確か荷の中に……ちょっと取ってくる」
僕が問うと、船員の一人が挙手した。
どうやら別の部屋にあるらしく、出入り口へと向かう。しかし扉を開けて外に出た彼は、驚きの声をあげて後退する。
「どうした?」
パウル殿が問いかけるのと同時に、誰かが室内へと一歩踏み入れた。
「!」
現れた人物を見て、僕を含めた皆が目を見開く。
覚束ない足取りで中へと入ってきた人の体が、ゆらりと傾いだ。戸口近くの壁に、どん、とぶつかるような形で凭れ掛かる。引っ掛けただけの上着の隙間から覗く上半身には包帯が巻かれ、所々血が滲んでいる。明らかに、歩いていい健康状態ではない。しかし目だけは、ギラギラと輝いていた。手負いの獣のような鋭さだった。
「ローゼマリー様は、何処だ」
掠れた声で、その人物――クラウス・フォン・ベールマーは問う。
「クラウス! 貴方、その体で起きてきたの!?」
「む、無茶です! 傷は完全には塞いでいないんですよ!?」
ビアンカ嬢とミハイルが、焦った様子で駆け寄る。支えようとするのを、ベールマー殿は手振りで制した。
「いい、構うな。それよりも、殿下はどちらにいらっしゃる?」
「……」
ビアンカ嬢もミハイルも、同じように沈黙した。
真っ直ぐな気質の二人に、笑いながら嘘を吐けとは言えないが、もう少し頑張って誤魔化して貰いたかった。僕は胸中で溜息を吐きながら、顔付きが更に険しくなった男を見据える。射るような視線が、僕に向けられた。
「殿下を攫った者、と言ったな」
唸るような声を聞きながら、自分の失敗を悟った。どうやら、さっきの会話を聞かれていたらしい。ビアンカ嬢とミハイルを責めるのは、お門違いだった。犯人は僕だ。
「殿下は攫われたのか。誰にだ? 何処にいらっしゃる?」
「……聞いていたのなら、分かるでしょう。犯人は分かっておりません。何処に行ったのかも。それどころか、まだ攫われたと確定した訳でもありません」
「だが、いなくなった。それだけは事実だろう!」
ベールマー殿は、咆哮するが如く叫んだ。
怒りに顔を歪めた彼は、苛立たしげに壁を殴りつける。傷口が開き、左手の甲に巻かれた包帯が赤く染まった。
「安静にして下さい! 貴方はまだ、動ける体じゃない」
青褪めたミハイルは、慌ててベールマー殿の腕を掴む。しかしベールマー殿は、ミハイルの手を振り払うと、壁から背を浮かせた。
「ちょっと、何処へ行くつもり?」
足を引き摺るようにして歩き出したベールマー殿に、ビアンカ嬢は驚きの声をあげる。
「殿下を探しに行く」
「その体で!? 馬鹿も休み休み言いなさいよ! その辺で野垂れ死ぬのがオチだわ!」
「そうだぜ、兄さん。アンタは瀕死の重傷だったんだぞ」
「無理して動くから、傷口が開きかけてんじゃねえか! アンタは大人しく寝ていろ!」
ビアンカ嬢だけでなく、船員達も説得しようとした。しかしベールマー殿は、まるで聞く耳を持たない。
「オレは殿下の護衛だ。オレが探さずに誰が探す」
「オレ達が探しますから!」
「ローゼマリー様に関わる事を、他の人間に頼むつもりはない」
「なにこの頑固者!?」
船員達は必死に止めようと、ベールマー殿の体を押さえる。しかしベールマー殿は、それを振り切って部屋を出て行こうとした。満身創痍である彼のどこに、こんな力が残っていたのだろうか。呆れればいいのか感心すればいいのか分からない。
「アンタになんかあったら、オレ達は嬢ちゃんになんて謝ったらいいんだよ!? 頼むから大人しく寝ていてくれ!」
「オレが間抜けにも寝ている間に、ローゼマリー様がいなくなったんだぞ!? これ以上寝てなどいられるものか!」
「無理して死んだら、元も子もないでしょうが!!」
「オレの命は、ローゼマリー様に捧げたものだ! あの方の危機に使わずして、いつ使う!」
ベールマー殿は、絞り出すような声で叫んだ。彼の顔に浮かぶのは、怒りと苛立ちと、そしてそれらを上回る強い後悔の念だった。
「クラウス……貴方、なんて事を……!」
ビアンカ嬢は絶句した後、怒りに顔を朱に染めた。
細い肩と握りしめた拳が、小刻みに揺れている。しかし、動いたのは彼女よりも、彼女の隣に立つミハイルの方が早かった。
ベールマー殿の正面に回り込んだミハイルに、皆の視線が集中する。
何事かと見守っていた僕達は、次の瞬間、驚愕の光景を目にする事となった。
――バキッ!!
「っぐ、!?」
ミハイルは握り込んだ拳を、ベールマー殿の頬に叩き込んだ。もう一度言おう。ミハイルが、ベールマー殿を殴った。しかも、容赦の欠片もない強さで。
魔導師であるミハイルの拳に、大した力はないだろう。しかし、受けた衝撃は計り知れない。主に、精神的な意味でだ。
誰もが口を半開きにしたまま、固まった。姉であるビアンカ嬢でさえ例外ではなく、絶句している。
ミハイルは、ベールマー殿を殴った事により、赤くなった手を軽く振る。雑な仕草で前髪を掻き上げた彼の目は、怒りに燃えていた。
「ふざけるな」
ミハイルの声は低く掠れていた。過ぎる怒りを、無理やり押し殺しているかのようだった。
「貴方の命は、奇跡ではなく人の努力で繋がれたものだ。同船していた人達が、王女様が、必死になって繋ぎ止めてくれた結果、貴方は今、こうしてここにいる。そんな大切なものを、貴方は自分の身勝手で、捨てようと言うのか!!」
「……っ」
ベールマー殿は息を呑む。
大きく見開かれた翠緑の瞳からは、先程までの苛烈な怒りが消えた。
「王女様がどれだけ貴方を呼んでいたか! どれだけ貴方のために泣いていたか! あんなに大切にしてもらって、どうして……」
「……ミハイル」
くしゃりと顔を歪めたミハイルの肩を、ビアンカ嬢はそっと抱いた。
ミハイルは泣きそうな顔を隠すように俯く。鼻を啜る音の後に、殴ってごめんなさいと、小さな呟きが聞こえた。
「…………いや、」
呆然としていたベールマー殿は、殴られた頬を押さえて、同じように俯いた。
僕は、ミハイルとベールマー殿のどちらにも、声をかけ倦ねている。
なんと言ったらいいか、分からなかった。
ミハイルの怒りは、もっともだった。皆やマリー様が必死に守ったものを、本人が粗雑に扱おうとしているのだから。
でも僕は、ベールマー殿の気持ちも少しだけ分かる。
すぐ傍にいたのに、大切な人を守れなかった。その後悔と憤りは、筆舌に尽くしがたいだろう。どんな目に合っているのかも分からないなら、尚更。嫌な想像ばかりが頭を占めて、気が狂いそうだ。
握りしめた拳に、自然と力が篭った。
気まずい沈黙が流れた室内に、こつん、と小さな音が響く。
音の方向を探り、室内を見回す。もう一度、同じ音が鳴った。
「……鳥?」
ビアンカ嬢は、不思議そうな顔で首を傾げる。彼女の視線を辿り、振り返った。窓の向こう、闇に溶け込んでしまいそうな黒い羽根の鳥が、小首を傾げる。つい最近、見た光景だった。
「……まさか」
僕は言うなり、慌てて窓へと駆け寄る。
こつ、と嘴でガラスを突く鳥の足には、僕の想像通り、手紙が括り付けられていた。
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