転生王女の動揺。(2)
天井を見上げたまま、私は動きを止めた。否、正しく言うならば、動けなくなっていた。僅かに身動ぎしただけでも、ナイフが飛んでくるんじゃないかという恐怖に頭が支配されている。それから、単純に腰が抜けて立てないのも理由の一つだった。
視線を縫い留められている私の顔に、風に煽られた雨粒がパラパラとまばらに降り注いだ。
「下がってろ」
低い声で、ヴォルフさんは私に命じた。
尻餅をついたままの私は、ずりずりと這いずって壁際まで後退する。周囲を警戒しながら、ヴォルフさんはもう一本のナイフを引き抜いた。独特な形をした二本のナイフを構えた彼は、天井を睨む。
張り詰めた空気に、肌が粟立った。
室内は静まり返り、雨と風が枝葉を揺らす音だけが響く。しかし私の耳元では、篭った音が煩いくらい鳴っていた。耳障りなざわめきは、耳を塞いでも治まるどころか激しさを増す。そこで漸く、騒音の正体が自分の鼓動と荒い息遣いだと気がついた。
こわい、こわい。もういや。
弱音と泣き言ばかりが頭を占める。限界だ。船上での海賊からの襲撃に続き、またしても命の危機。キャパシティはとっくにオーバーしていた。
「っ!」
カツン、と鳴った小さな物音に、意識が集中する。
私とヴォルフさんが見守る前で、木の実が床を転がった。
ホゥ、と安堵の息を吐き出す。
その瞬間を見計らっていたかのように、窓を塞いでいた木戸が派手な音をたてて吹き飛んだ。
「ひっ!?」
引き攣った悲鳴が洩れる。
外からの衝撃に木戸は破壊され、木片となって室内に降り注ぐ。ついでとばかりに細身のナイフが、またしても飛んできた。木っ端を腕で防いでいたヴォルフさんは、反応するのが僅かに遅れる。身を掠めるギリギリで、辛うじて避けた。体勢を崩した彼は、たたらを踏む。
ヴォルフさんがよろけた隙を突くみたいに、窓から人が飛び込んできた。素晴らしい身のこなしで着地すると、ヒラリと外套の裾が羽根のように優雅に揺れた。
その人物は無駄のない動きで距離を詰め、ヴォルフさんのナイフを蹴り飛ばす。ヴォルフさんはもう一本のナイフで斬りかかるが、侵入者はアッサリと避けた。
ヴォルフさんは蹴られて痺れた腕を庇いながら、後退して距離を取る。
「……その格好、船の上で見た気がするんだけど、気のせいかしら?」
吐き捨てるような声で、ヴォルフさんは問う。答えはない。
侵入者に動揺は見られなかったが、むしろ関係のない私が混乱していた。
船上で見たって、どういう事?
私達と同じ船に乗っていたの?
言われてみれば、記憶の片隅に引っかかる。どこかで見た気がするが、緊張と恐怖でグチャグチャな頭では、まともな答えは見つかりそうになかった。
もしかして、ずっと見張られていたんだろうか。否、狙われていた?
ヴォルフさんが? ……それとも、私が?
だったら、何故今頃殺しにきたんだろう。
船の上ではクラウスが傍にいたけれど、チャンスはたぶんあった。海賊が襲撃してきた時のどさくさに紛れて殺そうと思えば、簡単に殺せたと思う。
なんで、今更?
私が悩んでいる間にも、戦いは続く。
大振りのナイフ対細身のナイフ、否、暗器。接近戦ではヴォルフさんに分がありそうだと思っていたのだが、寧ろ押されていた。
苛立ちに舌打ちをしたヴォルフさんは、侵入者の顔めがけてナイフを突き出す。しかし外套を掠めるだけに終わった。侵入者は、突き出したヴォルフさんの腕を掴み、引き寄せる。ヴォルフさんの腹に膝蹴りが食い込んだ。
「っぐ、」
ヴォルフさんは短く呻く。
腕を捻り上げ、ナイフを奪った侵入者は、流れるような動作でヴォルフさんを倒す。床に倒れたヴォルフさんの頸動脈に、ピタリとナイフが押し当てられた。
「……っ、」
決着はついた。ついてしまった。
ヴォルフさんはクーア族。薬師が本職であり、傭兵でも騎士でもない。でも船上で海賊相手に戦って生き延びた彼は、決して弱くはない筈なのに。侵入者は、かすり傷一つ負わず、呼吸を乱す事すらなく倒してしまった。
たぶん、ヴォルフさんが弱いのではない。侵入者が強いんだ。
「アンタ、」
「動くな」
身動ぐヴォルフさんに、侵入者は端的に告げた。
「次は殺す」
殺す、という言葉に血の気が引いた。
心臓が一際大きく跳ねる。嫌な汗がコメカミを伝った。
どうする、どうしたらいい。
ヴォルフさんが殺されるのは嫌だ。かといって、私自身も死にたくはない。
圧倒的に強い侵入者に対し、自由に動けるのは、引き篭もりの王女だけ。こんな詰んでいる状況で、どうやったら二人とも生き残れる?
考えろ。使えるカードは手元にある?
侵入者はすぐにヴォルフさんを殺す気がない。
おそらく私も、すぐに殺すつもりはない。
つまり私達どちらかの身柄、もしくは何らかの情報が目的?
なら私の命は、五十パーセントの確率で使えるカードになり得る。
周囲を見回す。少し離れた場所に、弾き飛ばされたヴォルフさんのナイフが転がっている。自害の真似事でもすれば、多少は注意を引けるだろうか。
もしくは逃げる?
でもその手は、私がターゲットだった場合のみ有効だ。それに私が目的だったとしても、追うのに邪魔だからとヴォルフさんを殺されてしまうかもしれない。
良い案は一つも思い浮かばず、焦りは増す。
少しでも気をそらせれば、活路が開けるかもしれないのに。
「そっちも大人しくしていてくれ」
私が逃げようと企んでいるのは、バレていたようだ。
声をかけられて、私は反射的に顔をあげる。
侵入者の被っていたフードがずり落ちて、波打つ黒髪が零れ落ちる。その奥から覗くのは、長い睫毛に飾られた赤い瞳。気怠げに見えるのは、その目つきのせいだろうか。まるで眠たげな猫のようだ。
少しでも手元が狂えば、人の命を奪ってしまう状況にありながら、緊張感のない表情。その姿を呆然と眺めていた私の頭の中で、男性の声が再生される。
『怠い』
眠たげな目で、眠たげな表情で。口癖のように彼は言っていた筈だ。
目の前の人の姿と、かつて見た映像が、ピタリと一致する。
「…………からす……?」
「!?」
ぽつり、と私の口から零れ落ちた呟きに、侵入者の目が見開かれた。
ヴォルフさんは一瞬の隙を見逃さず、侵入者の腕を掴み、顎目掛けて頭突きを繰り出す。
「おらっ!!」
「ぐっ」
がつ、と痛そうな音が鳴って、ナイフが手から滑り落ちた。ヴォルフさんは侵入者の胸ぐらを掴んで引き倒す。
馬乗りになって、侵入者の喉元にナイフを突きつける。
「形勢逆転ね。ざまあないわ」
ヴォルフさんは、犬歯を剥いて獰猛に笑った。
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